松井千枝子
まつい ちえこ 松井 千枝子 | |
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本名 | 蔵数 富子 |
別名義 | 松波 美子 |
生年月日 | 1899年12月4日 |
没年月日 | 1929年4月2日(29歳没) |
出生地 | 日本・東京市浅草区諏訪町 |
死没地 | 日本・東京府荏原郡蒲田町 |
職業 | 女優 |
ジャンル | サイレント映画 |
活動期間 | 1924年 - 1928年 |
活動内容 | 映画出演、脚本 |
著名な家族 |
松井潤子(妹) 松井満(弟) |
松井 千枝子︵まつい ちえこ、1899年12月4日 - 1929年4月2日︶は、日本の女優。本名‥蔵数 富子[1]。旧芸名は松波 美子[1]。大正から昭和初期にかけてサイレント映画で活躍した。
女優の松井潤子は妹、俳優の松井満は弟にあたる[1]。
映画﹃妖婦五人女﹄︵1926年︶宣伝用写真から。左から栗島すみ子、 松井千枝子、川田芳子、筑波雪子、柳さく子
1927年︵昭和2年︶、同名の小唄をモチーフとした﹃春の雨﹄の原作・脚色を担当し自ら主演[1][4]、同年、千代子が書いた﹁寂光﹂を改題した﹃哀愁の湖﹄でも脚色・主演を担当した[1][5]。
1928年︵昭和3年︶に腎臓病のため手術を行ったが、療養中の1929年︵昭和4年︶4月2日に蒲田町の自宅で早世[1]。29歳没。同年7月に城戸四郎、六車修、高松栄子や龍田静枝、齋藤京之助の文を寄せた遺稿集﹃死の舞台﹄を潤子らが刊行[1]、8月に遺作﹃3善人﹄が公開された[3]。
﹃屋上の恋人﹄︵1925年︶のスチル。左から堀川浪之助、松井、新 井淳
●﹃南島の春﹄ 1925年 監督‥五所平之助
●﹃大地は微笑む﹄ 1925年 監督‥牛原虚彦・島津保次郎
●﹃女難﹄ 1925年 監督‥蔦見丈夫
●﹃愛の乱舞﹄ 1925年 監督‥吉野二郎
●﹃坂崎出羽守﹄ 1925年 監督‥勝見庸太郎
●﹃郊外の家﹄ 1925年 監督‥重宗務
●﹃踊り子の指輪﹄ 1925年 監督‥島津保次郎
●﹃屋上の恋人﹄ 1925年 監督‥吉野二郎
●﹃正直金さん﹄ 1926年 監督‥勝見庸太郎
●﹃悩ましき頃﹄ 1926年 監督‥清水宏
●﹃秋の歌﹄ 1926年 監督‥池田義信
●﹃海人﹄ 1926年 監督‥鈴木傳明
●﹃コスモス咲く頃﹄ 1926年 監督‥野村芳亭
●﹃受難華﹄ 1926年 監督‥牛原虚彦
●﹃孔雀の光﹄ 1926年 監督‥吉野二郎
●﹃妖婦五人女 第四篇 奥様お千枝﹄ 1926年 監督‥野村芳亭
●﹃父帰る﹄ 1927年 監督‥野村芳亭
●﹃春の雨﹄ 1927年 監督‥清水宏
●﹃白虎隊﹄ 1927年 監督‥野村芳亭
●﹃海の勇者﹄ 1927年 監督‥島津保次郎
●﹃毒唇﹄ 1927年 監督‥野村芳亭
●﹃哀愁の湖﹄ 1927年 監督‥佐々木恒次郎
●﹃浅草行進曲﹄ 1927年 監督‥野村芳亭[6][7][8][9]
●﹃感激時代﹄ 1928年 監督‥牛原虚彦
●﹃鉄の処女﹄ 1928年 監督‥大久保忠素
●﹃昭和の女﹄ 1928年 監督‥清水宏
●﹃道頓堀行進曲﹄ 1928年 監督‥野村芳亭
●﹃不如帰﹄徳富蘆花原作、1928年︵ニッポノホン映画解説レコード︶ [10][11][12][13]
●﹃3善人﹄ 1929年 監督‥野村芳亭
フィルムが現存するのは﹃地下室﹄︵1927年 監督‥蔦見丈夫、8分︶と﹃感激時代﹄︵19分︶のみである[14]。
来歴・人物[編集]
1899年︵明治32年︶東京市浅草区諏訪町に、南葛飾郡で病院を経営する医師の元に長女として生まれる[1]。1917年︵大正6年︶に東京府立第一高等女学校を卒業[1]。1922年︵大正11年︶に母親が死亡し、この後父親が再婚したため家を出、牛込区で妹の潤子と一緒に暮らす[1]。 1924年︵大正13年︶舞台協会に﹁松井千枝﹂として参加するが、病気のため一度も舞台に出演することができなかった[1]。この後小笠原プロダクションの﹃金色夜叉﹄で初めて映画に出演[2]後、国際活映に﹁松波美子﹂の芸名で入社するも1925年︵大正14年︶に国活が解散。師事していた松山省三や久米正雄に勧められて同年2月に松竹蒲田撮影所へ潤子と共に移り、芸名を﹁松井千枝子﹂とする[1]。五所平之助第1回監督作品である﹃南島の春﹄のヒロインとして松竹映画に初出演する[1][3]︵製作されたのは牛原虚彦・島津保次郎両監督の﹃大地は微笑む﹄が最初[1]︶。モダンガール役が多かった潤子と比べ、日本的な憂いを帯びた美人の役が定評を得る。おもなフィルモグラフィ[編集]
小笠原プロダクション ●﹃金色夜叉﹄ 1924年 監督‥三善英芳 国際活映 ●﹃ストトン﹄ 1924年 ●﹃関の五本松﹄ 1924年 ●﹃延命院のせむし男﹄ 1924年 監督‥池田義信 ●﹃義血﹄ 1924年 松竹蒲田撮影所書籍[編集]
●﹃都会で流行の家庭美容美顔術﹄ 芳蘭閣書房 1928年[15] ●﹃死の舞台﹄ 岸俊夫 (編)、宝文館、大阪宝文館、1929年7月[16]参考文献[編集]
●盛内政志、千葉伸夫﹁松井千枝子﹂﹃日本映画人名事典 女優篇・下巻﹄キネマ旬報社、1995年、554-557頁。脚注[編集]
(一)^ abcdefghijklmn﹁キネマ旬報﹂、キネマ旬報社、1995年。
(二)^ “松井千枝子”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus、. コトバンク. 2013年3月5日閲覧。
(三)^ ab松井千枝子 - 日本映画データベース、2013年3月5日閲覧。
(四)^ “春の雨”. 日本映画データベース. 2013年3月5日閲覧。
(五)^ “哀愁の湖”. 日本映画データベース. 2013年3月5日閲覧。
(六)^ 松井千枝子、三田英児、静田錦波﹃映画説明 浅草行進曲︵一︶﹄コロムビア︵戦前︶、1928年6月。2019年7月30日閲覧。
(七)^ 松井千枝子、三田英児、静田錦波﹃映画説明 浅草行進曲︵二︶﹄コロムビア︵戦前︶、1928年6月。2019年7月30日閲覧。
(八)^ 松井千枝子、三田英児、静田錦波﹃映画説明 浅草行進曲︵三︶﹄コロムビア︵戦前︶、1928年6月。2019年7月30日閲覧。
(九)^ 松井千枝子、三田英児、静田錦波﹃映画説明 浅草行進曲︵四︶﹄コロムビア︵戦前︶、1928年6月。2019年7月30日閲覧。
(十)^ 徳富蘆花︵原作︶、岩田祐吉、松井、熊岡天堂﹃映画説明‥不如帰︵一︶逗子海岸の場﹄コロムビア︵戦前︶、1928年7月。2019年7月30日閲覧。
(11)^ 徳富蘆花︵原作︶、岩田祐吉、松井千枝子、熊岡天堂﹃映画説明‥不如帰︵ニ︶﹄コロムビア︵戦前︶、1928年7月。2019年7月30日閲覧。
(12)^
徳富蘆花︵原作︶、岩田祐吉、松井千枝子、熊岡天堂﹃映画説明‥不如帰︵三︶﹄コロムビア︵戦前︶、1928年7月。2019年7月30日閲覧。
(13)^ 徳富蘆花︵原作︶、岩田祐吉、松井千枝子、熊岡天堂﹃映画説明‥不如帰︵四︶﹄コロムビア︵戦前︶、1928年7月。2019年7月30日閲覧。
(14)^ 入倉友紀 (2022). “松竹蒲田撮影所における女性の映画製作への参画――女優兼脚本家、松井千枝子の活動を通して”. 映像学 108: 159. doi:10.18917/eizogaku.108.0_144.
(15)^ “都会で流行の家庭美容美顔術”. 国立国会図書館サーチ. 芳蘭閣書房. 2013年3月5日閲覧。
(16)^ 全国書誌番号:46093177
関連文献[編集]
評伝[編集]
●﹁三拍子揃つてる松井千枝子嬢﹂﹃映画女優スタアになるまで﹄小池善彦 著、章華社︿なるまで叢書﹀第1編、1926年︵大正15年︶、31-34頁。 ●﹁コスモスの花を想はせる、松井千枝子﹂﹃キネマ・スターの素顔と表情﹄羽太鋭治 著、南海書院、1928年︵昭和3年︶、206-211頁。 ●﹁死んでも不可解な松井千枝子﹂﹃カフヱ行進曲﹄有明暁 著、新進社、1929年、69-74頁。 ●﹁松井千枝子﹂﹃女優情史﹄石上欣哉 著、日月社、1929年︵昭和4年︶、307頁-。 ●﹁瞬く妖星(松井千枝子の卷)﹂﹃映画界ローマンス﹄葛飾荘主人 著、平凡社、1930年︵昭和5年︶、65-83頁︵コマ番号43-51︶。 ●﹁松井千枝子との一問一答録﹂﹃荷風全集﹄第28巻、岩波書店、1965年、5-14頁。 その他 ●﹁松井千枝子・下川凹天﹂﹃スター漫画漫談 : 日本欧米映画俳優似顔漫画集﹄在田稠 (編)、緑陰社、1927年、20-22頁。外部リンク[編集]
●Chieko Matsui - IMDb︵英語︶
●松井千枝子 - 日本映画データベース
●松波美子 - 日本映画データベース
●入倉友紀﹁松竹蒲田撮影所における女性の映画製作への参画――女優兼脚本家、松井千枝子の活動を通して﹂﹃映像学﹄第108巻、日本映像学会、2022年8月、144-163頁、CRID 1390012081165496320、doi:10.18917/eizogaku.108.0_144、ISSN 0286-0279。