平出英夫
平出 英夫 | |
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生誕 |
1896年2月9日 大日本帝国 青森県 |
死没 | 1948年12月15日(52歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1917年 - 1945年 |
最終階級 | 海軍少将 |
平出 英夫︵ひらいで ひでお、1896年2月9日 - 1948年12月15日︶は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少将。
経歴[編集]
平出利根次郎の長男として青森県上北郡三沢村︵現在の三沢市︶に生まれ、5歳の時に伯父の平出栄太郎、京の養子となる[1]。祖父は旧斗南藩士の平出久矢[1]。1902年︵明治35年︶養父の赴任先である舞鶴に移住し、のち長崎に移り佐世保大村中学校を卒業する[2]。 1917年︵大正6年︶海軍兵学校第45期を卒業 、1924年︵大正13年︶海軍大学校選科、東京外国語大学を経て、1926年︵大正15年︶フランスに駐在[3]。 1929年︵昭和4年︶練習艦隊副官[3]、1936年駐伊武官を経て、在職中の1938年大佐に進級。1940年帰国。帰国後大本営海軍部報道課長に就任。1941年には内閣情報局にあり、時局講演会﹁高度国防国家建設と音楽の効用﹂において述べた﹁音楽は軍需品なり﹂という言葉は、﹁名言﹂として当時の様々なメディアに取り上げられ、講演の速記録が出版されるなどした[4][5]。 1943年7月軍令部課長を経て、同年12月駐比武官に就任した。翌年5月在職中に少将に進級。同年11月軍令部出仕。1945年8月北海軍需監督部第三部長に就任。間もなく終戦を迎えた。同年9月、予備役に編入された。戦後は郷里の三沢に戻った[3]。のち、公職追放となり[6]、追放中の1948年死去。︵死去後の1952年追放解除[7]︶著作[編集]
- 『ソロモン海上決戦』興亜日本社、1943年。