建春門院伯耆
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建春門院伯耆︵けんしゅんもんいんのほうき、生没年不詳︶は、鎌倉時代初期の女流歌人。近江守卜部基仲[* 1]の娘。神祇伯仲資王の妻[1]。業資王・資宗王の母。内裏伯耆︵だいりのほうき︶とも呼ばれた。
経歴[編集]
高倉天皇の生母である建春門院平滋子に出仕、後に土御門天皇の内裏女房[2]。また、斎宮の乳母を務めた[1]という。後鳥羽院歌壇で歌合に参加している。逸話[編集]
●1205年︵元久2年︶正月19日の朝覲行幸において、後鳥羽院によって琵琶の秘曲が演奏された[* 2]ことが、朝廷内での一大ニュースとなった。これについて、土御門天皇方を代表して伯耆が、後鳥羽院方を代表して下野が、歌の応酬をしている。 まことや行幸の御遊の御ひわのしらへめつらかなるよし よにののしりあへるを うちの女房ははきのつほねそうせよとおほしくて よしとははいともかしこしつのくにの こやさきのよのしるへなるらん かへしせよと仰あれは 下野 なにかいふむかしもいまもためしなく 雲のうへまてひひくしらへを — ﹃源家長日記﹄ 元久二年正月 ●1210年︵承元4年︶正月頃の早朝、藤原定家が内裏の八重桜の一枝を切って持ち帰ったのを、蔵人達が見ていた。その話を聞いた土御門天皇が、伯耆に歌で定家に﹁見たぞ﹂と言ってやれと命じた。 女房伯耆 くれなゐの薄様に書きてつかはしける なき名ぞと後にとがむな八重桜 うつさむ宿はかくれしもせじ 返し 暮ると明くと君につかふる九重の やへさく花の陰をしぞ思ふ — ﹃古今著聞集﹄ 巻第十九 草木第廿九[3]作品[編集]
名称 | 時期 | 作者名表記 | 備考 |
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石清水若宮歌合 | 1200年(正治2年) | 内裏伯耆 | 西園寺公経と番い勝1持3無判1 |
仙洞影供歌合 | 1202年(建仁2年)5月26日 | 女房伯耆 | 藤原隆房と番い負1持2 |
- 家集は伝存しない。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 今村みゑ子 「順徳天皇と音楽」 『明月記研究 7号 記録と文学』 2002年12月 明月記研究会