弥勒寺 (東海市)
表示
弥勒寺 | |
---|---|
本堂 | |
所在地 | 愛知県東海市大田町寺下4 |
位置 | 北緯35度1分22.724秒 東経136度53分57.581秒 / 北緯35.02297889度 東経136.89932806度座標: 北緯35度1分22.724秒 東経136度53分57.581秒 / 北緯35.02297889度 東経136.89932806度 |
山号 | 待暁山 |
宗旨 | 真言宗 |
宗派 | 智山派 |
本尊 | 弥勒菩薩 |
創建年 | (伝)天平勝宝元年(749年)、もしくは(伝)弘仁5年(814年) |
開山 | (伝)行基、もしくは(伝)空海 |
中興年 | 元禄年間(1688年 - 1704年) |
中興 | 徳川光友 |
別称 | 大里の大坊 |
札所等 | 知多四国霊場第83番札所 |
文化財 | 木造弥勒菩薩座像、木造金剛力士立像(ともに東海市指定文化財) |
法人番号 | 5180005012638 |
弥勒寺︵みろくじ︶は、愛知県東海市大田町にある真言宗智山派の寺院。知多四国霊場の第83番札所である。
沿革[編集]
天平勝宝元年︵749年︶に行基が創建した[1]とも、弘仁5年︵814年︶に空海が創建した[2]とも伝えられる。 最盛期には一山六ケ寺七堂伽藍を有したというが、関ヶ原の戦いで西軍についた九鬼嘉隆の軍勢による襲撃を受け[注釈 1]、仁王門と本尊の弥勒菩薩を除いて焼失してしまう。 元禄年間︵1688年 - 1704年︶になって、尾張藩第2代藩主・徳川光友の寄進により再建された[注釈 2]。 その後、江戸時代後期から明治時代半ばにかけて無住状態が続く[3]など再び衰退するも、大正時代に入ってから境内の宝篋印塔が﹁現世利益の祈願塔﹂として知られるようになり[1][4]、再興を果たす。境内[編集]
●仁王門 - 平成20年︵2008年︶に改修。正面と境内側︵内側︶に、金剛力士が新旧一対ずつ︵計4体︶安置されている。正面の金剛力士は、知多四国霊場開創200年を記念し造立されたもの[5]で、愛・地球博の際に瀬戸会場・市民パビリオンで公開制作された[6]。境内側︵内側︶の金剛力士は、東海市指定文化財︵後述︶。 ●手水舎 ●本堂 - 本尊の弥勒菩薩︵東海市指定文化財、後述︶を安置する。 ●客殿︵大師堂︶ - 弘法大師・興教大師・不動明王が祀られている。 ●宝篋印塔堂 - 八角形の拝殿のなかに、宝暦5年︵1755年︶に建立された宝篋印塔が祀られている。﹁お塔さま﹂と呼ばれ、多くの人の信仰を集める。 ●祠︵白山大神、伏見稲荷、天満宮︶ ●庫裏ギャラリー[編集]
仁王門(正面、2016年10月)
仁王門(境内側、2016年10月)
手水舎(2016年10月)
客殿(2016年10月) 右側に宝篋印塔堂が見える
文化財[編集]
東海市指定文化財[編集]
木造弥勒菩薩座像[7][8][9] 座高約80cm、欅材の寄木造。﹃張州雑志﹄には行基の作とあるが、実際は室町時代の作とされる。像容は飛鳥時代・奈良時代の弥勒像と異なり、小塔を捧げ持つ平安時代中期以降の形式。輪光は、寛永17年︵1640年︶に住持・政久が、像の開帳にあわせて作り奉納したとされる。 木造金剛力士立像︵仁王像︶[7][10]。 阿形は高さ272.6cm、楠︵一部桧︶材の寄木造。吽形は高さ273.1cm、楠材の一木造。平安時代末期︵12世紀頃︶の作と考えられており[11]、もともと運得寺︵東海市荒尾町︶にあったものを応仁2年︵1468年︶に移設したと伝えられる。長年の風雨にさらされ、傷みが激しい。その他[編集]
錫杖 知多四国八十八箇所を開創した一人である、武田安兵衛が携帯していたもの。御詠歌[編集]
限りなき 弥勒の御世に 大里の 法の御庭に となふ声明