ベースボール・マガジン社
(恒文社から転送)
本社 | |
種類 | 株式会社 |
---|---|
略称 | BBM |
本社所在地 |
日本 〒103-8482 東京都中央区日本橋浜町二丁目61番9号 TIE浜町ビル 北緯35度41分22.0秒 東経139度47分15.7秒 / 北緯35.689444度 東経139.787694度座標: 北緯35度41分22.0秒 東経139度47分15.7秒 / 北緯35.689444度 東経139.787694度 |
設立 | 1951年3月20日 |
業種 | 情報・通信業 |
法人番号 | 9010001028766 |
事業内容 | スポーツに関連する雑誌・書籍の出版、映像ソフト出版、各種セミナーの開催など |
代表者 | 池田哲雄(代表取締役社長) |
資本金 | 5,000万円 |
従業員数 | 170人(2016年4月1日現在) |
外部リンク | https://www.bbm-japan.com/ |
株式会社ベースボール・マガジン社︵ベースボール・マガジンしゃ、BASEBALL MAGAZINE SHA Co.,Ltd︶は、野球やサッカーをはじめとするスポーツ・体育関連の雑誌・書籍の発行を行う日本の出版社。略称はBBM[注 2]。本社は東京都中央区日本橋浜町に置く。
社名に“ベースボール”と付いているが、編集プロ時代の1949年に創刊した﹃ベースボール・マガジン編集・相撲号﹄︵のちの月刊﹃相撲﹄︶をはじめ、あらゆるジャンルのスポーツ情報誌やムック、書籍を発行している。スポーツ選手のトレーディングカード﹁BBMスポーツカード﹂の発売・スポーツ関連のDVDソフトの発売なども手掛けている。
創立のきっかけとなった、
﹃ベースボール・マガジン﹄創刊号
︵1946年4月20日発行︶
1946年4月、﹃野球界﹄[注 3]編集長を務めた池田恒雄により東京都北多摩郡谷保村︵のちの国立市︶の自宅に恒文社を設立し、﹃ベースボール・マガジン﹄を創刊[1]。それに合わせて同年5月3日、同じく谷保村で編集部門︵編集プロダクション︶としてベースボール・マガジン社を設立した。
1951年3月20日に株式会社ベースボール・マガジン社として法人化。あわせて、﹃ベースボール・マガジン﹄の発行元となった。1956年に本社を東京都千代田区神田錦町3-3へ移転。
1965年には兄弟会社の恒文社から﹃平凡パンチ﹄に競合する男性向け週刊誌﹃F6セブン﹄、﹃朝日ジャーナル﹄路線の総合雑誌﹃潮流ジャーナル﹄を創刊するも1年ともたずに休刊。その他の翻訳出版などもうまくゆかず、資金繰りが悪化して10億円とも言われる負債を抱えて倒産。1967年12月に東京地方裁判所に会社更生法の適用を申請して、再建に乗り出す[2]。この倒産時に一部の社員が退社し立ち上げたのが、日本スポーツ出版社である[3]。
1984年に後楽園球場︵のちの東京ドームシティ︶近くの千代田区三崎町3-10-10へ移転。
ベースボール・マガジン社旧社屋︵東京都千代田区三崎町︶
2015年4月1日より新潟県南魚沼市の大原運動公園野球場の命名権を取得し﹁ベーマガSTADIUM﹂の名称で呼ばれる。
2016年に三崎町の本社ビルを売却し、東京都中央区日本橋浜町へ移転。
歴史[編集]
定期刊行物[編集]
- 増刊扱いの雑誌は除く
週刊誌[編集]
月刊誌[編集]
- ベースボールマガジン(1946年創刊)
- 相撲(1952年創刊)
- 陸上競技マガジン(1951年創刊)
- サッカーマガジン(1966年創刊)
- ラグビーマガジン(1972年創刊)
- ソフトテニスマガジン(1975年創刊)
- アメリカンフットボールマガジン(1975年創刊)
- スイミングマガジン(1977年創刊)
- バドミントンマガジン(1980年創刊)
- ボウリング・マガジン(1983年創刊)
- サッカークリニック(1994年創刊)
- ランニングマガジン・クリール(2002年創刊)
- ベースボールクリニック(2002年創刊)
休刊・廃刊[編集]
- 週刊スポーツマガジン(1959年創刊)
- Five 6 Seven(1965年創刊)
- 水泳競技マガジン(1966年創刊)
- バレーボールマガジン (1973年創刊)
- Jam Jam 野球界(1981年創刊)
- ハンドボールマガジン (1984年創刊、1985年休刊)
- バスケットボールマガジン (1984年創刊)
- 卓球マガジン (1985年創刊、1987年休刊)
- ザ・ゲートボール (1985年創刊、1988年休刊)
- アイスホッケー・マガジン (1985年創刊、2017年休刊)
- 近代空手(1985年創刊)
- 季刊水の趣味 (1988年創刊)
- 格闘技通信(1986年創刊)
- 月刊メジャー・リーグ (1997年創刊)
- フィギュアスケートマガジン
- こどもじかん(2017年創刊)
- スポーツカードマガジン(1997年創刊、2017年休刊)
- スイマーズ
- 72ヴィジョンGOLF
- テニスマガジン(1970年創刊、2022年休刊)
- ヒットエンドラン
- ベースボールクリニック
- ラグビークリニック
- ワールドサッカーマガジン
- マラソン・マガジン(1977年創刊)
- 月刊武道(1974年創刊)
- 綱引マガジン(1990年創刊、2007年休刊)[4]
- 月刊J2マガジン(2014年創刊、2017年休刊)
- コーチングクリニック(1987年創刊、2022年休刊)
- ボクシング・マガジン(1956年創刊、2022年休刊)
- ソフトボールマガジン(1977年創刊、2022年休刊)
- 近代柔道(1979年創刊、2022年休刊)
歴代社長[編集]
創業家の池田家による同族経営である。
代 | 在任期間 | 人物 | 備考 |
---|---|---|---|
初 | 1951年3月20日 - | 池田恒雄(1911年5月3日 - 2002年2月9日) | 新潟県北魚沼郡小出町(のちの魚沼市)出身。早稲田大学卒業。 |
2 | - 1998年 | 池田郁雄(1940年6月25日 - 1998年10月12日) | 池田恒雄の息子。会長へ退いた池田恒雄に代わり、社長に就任。在任中に死亡。 |
3 | 1998年 - | 池田哲雄(1957年8月30日 - ) | 池田恒雄の三男。異母兄である池田郁雄の急死後、社長に就任。 |
主な歴代在籍者[編集]
社員[編集]
記者・編集者 姓の五十音順。<>内は、ベースボール・マガジン社社員としての在籍期間。 ●朝岡秀樹 - ﹃格闘技通信﹄5・7代目編集長。 ●池田雅雄<1949年 - > - 池田恒雄の弟。﹃相撲﹄編集長。 ●市瀬英俊<1986年頃 - 1998年> - ﹃週刊プロレス﹄記者、﹃週刊ベースボール﹄記者。 ●大住良之<1974年 - 1982年> - ﹃サッカーマガジン﹄編集長。サッカージャーナリスト。FC PAF監督。 ●加藤誉昭 - 記者。プロ野球選手。 ●小島和宏<1991年頃 - 1996年8月31日> - ﹃週刊プロレス﹄記者。 ●佐藤正行 - ﹃週刊プロレス﹄編集長→﹃週刊ベースボール﹄編集長→﹃週刊プロレス﹄編集長→﹃ベースボールマガジン﹄編集長。﹃週刊ベースボール﹄﹃週刊プロレス﹄両誌の編集長を歴任したのは唯一。新潟県出身。 ●杉山頴男< - 2000年> - ﹃週刊プロレス﹄初代編集長、﹃格闘技通信﹄初代編集長。 ●鈴木健<1991年 - 2009年9月30日> - ﹃週刊プロレス﹄記者。同誌元編集次長。 ●関三穂︵せき みつほ、1907年 - 2003年︶ - ﹃野球界﹄編集者・カメラマン。﹃プロ野球史再発掘﹄シリーズなどの野球関連書籍を発表している。野球ライター。 ●竹内宏介<1965年 - 1968年> - ﹃プロレス&ボクシング﹄編集長。1968年に日本スポーツ出版社へヘッドハンティングされ、移籍。 ●谷川貞治<1984年頃 - 1996年> - ﹃格闘技通信﹄編集長。後に、K-1イベントプロデューサー。 ●田村大五<1954年 - 1959年、1975年 - 2008年> - ﹃週刊ベースボール﹄編集長、編集局長、常務取締役、顧問。ベースボールコラムニスト。新潟県柏崎市出身。 ●原功<1982年 - 2001年> - ﹃ボクシング・マガジン﹄編集長。 ●本多誠 - ﹃格闘技通信﹄4・8代目編集長、﹃週刊プロレス﹄編集長。 ●村上晃一<1987年 - 1998年> - ﹃ラグビーマガジン﹄編集長。ラグビージャーナリスト。 ●田村一博<1989年 - > - ﹃ラグビーマガジン﹄編集長。 ●山本茂 - ﹃ボクシング・マガジン﹄編集長。 ●ターザン山本!<1980年 - 1996年> - ﹃週刊プロレス﹄編集長、﹃格闘技通信﹄編集長。 ●結城信孝<1967年 - 1973年> - ﹃週刊ベースボール﹄記者、﹃相撲﹄記者。 ●湯沢直哉<1997年 - > - ﹃週刊プロレス﹄編集長。顧問[編集]
●伊原春樹 - プロ野球選手。 ●奥井成一 - プロ野球選手。 ●関本四十四 - プロ野球選手。新潟県糸魚川市出身。 ●常見忠 - プロ野球選手。恒文社[編集]
株式会社恒文社︵こうぶんしゃ︶はベースボール・マガジン社︵BBM︶の兄弟会社という関係にあり、本社・販売部は同じ東京都千代田区三崎町三丁目に設けられていた︵本社は10番10号、販売部は5番5号︶。社名の﹁恒﹂は、池田恒雄から1字採ったもの。
前述の﹃F6セブン﹄﹃潮流ジャーナル﹄の他、池田恒雄の趣味であるソ連や東ヨーロッパ関係の出版物として﹃東欧文学全集﹄やソ連の雑誌﹃スプートニク﹄の日本語版を出した[2]。
そして、BBMがベースボールマガジンの発行元となって以降も、恒文社からは野球をはじめとするスポーツ関連の雑誌・書籍を発行する場合がある。特定の野球選手を取り上げたグラフ誌﹃ベースボールアルバム﹄︵1979年 - 2000年︶、特定のプロレスラーを取り上げたグラフ誌﹃プロレスアルバム﹄︵1980年 - 1988年︶も、もともとは恒文社からの発行だった︵いずれも、1986年途中にBBMへ変更[5]︶。
過去に恒文社から発行していたスポーツ関連書籍を、後年BBMが改訂版として発行する事がある︵例‥1985年発行の﹃大阪タイガース球団史﹄[注 4]→1992年発行の﹃大阪タイガース球団史1992年度版﹄[注 5]︶。また、2009年12月10日には﹃週刊プロレス﹄の1500号を記念して、1982年 - 1983年に当時の恒文社が発行していた﹃プロレスアルバム﹄の初代タイガーマスクを取り上げた全3号を復刻・合本した﹃プロレスアルバム タイガーマスク Special Edition﹄をBBMから発売している。
BBMが発行している各種トレーディングカードの商標は、恒文社が所有している。
2016年1月1日付で、BBMに吸収合併された[6]。
関連会社[編集]
- かつての関連会社
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 登記上は中黒なしの「株式会社ベースボールマガジン社」
- ^ ベーマガと略される場合もある(例:『週刊ベースボール』の豊田泰光のコラム)。なお、ベーマガはパソコン雑誌「マイコンBASICマガジン」の略称としても使われていた。
- ^ 1911年 - 1959年に博文館→博友社から発売・発行していた野球雑誌(前身は、1908年に創刊した『ベースボール』)。途中『相撲と野球』(1943年)→『相撲界』(1944年)→『国民体育』(1944年)を名乗っていた時期もあった。
- ^ 著者:松木謙治郎、書籍コード:ISBN 4770406347
- ^ 著者:松木謙治郎・奥井成一、書籍コード:ISBN 4583030290
出典[編集]
(一)^ 塩澤実信﹃出版社大全﹄論創社、2003年、p.202
(二)^ ab鈴木敏夫﹃出版 好不況下 興亡の一世紀﹄出版ニュース社、1970年、pp.479-483
(三)^ 力道山ミュージアムに掲載された竹内宏介のインタビュー︵ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント公式ホームページ内、2ページ目︶において、竹内が“当時のトップの方たちが独立して、日本スポーツ出版社を立ち上げた。”と語っている。また、杉山頴男のメールマガジン﹃編集とは時代の精神との格闘だ!﹄第1号﹁1章 なぜに月刊﹁プロレス﹂を週刊化したのか <1>自分一人が考えていることが、果たして世に通じるか?﹂︵2009年12月1日発行。サンプル︶[リンク切れ]より、“﹁プロレス﹂誌いた社員たち数人が飛び出し、創立した”と記述されている。
(四)^ 平野健児 (2015年12月3日). “過去には﹁綱引マガジン﹂も出してたベースボールマガジン社の純利益1.3億円など‥1分から読める注目の非上場企業の決算情報‥NOKIZAL決算速報‥オルタナティブ・ブログ”. オルタナティブ・ブログ. 2020年9月6日閲覧。
(五)^ ﹃ベースボールアルバム﹄は通算78号の﹁水野雄仁 PART II﹂︵9月発行︶から、﹃プロレスアルバム﹄は通算69号﹁前田日明 新格闘王伝説﹂から。
(六)^ 恒文社 国税庁法人番号公表サイト
外部リンク[編集]
- ベースボール・マガジン社
- SportsClick(ベースボール・マガジン社のスポーツ総合サイト)