戸川安清
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戸川 安清︵とがわ やすずみ、天明7年︵1787年︶ - 慶応4年3月4日︵1868年3月27日︶は、江戸時代末期︵幕末︶の幕臣︵旗本︶500石。通称は雄三郎。初名は安恵。字は興。雅号は蓮仙、剃髪後は蓬庵。
経歴[編集]
戸川安論の子として生まれた。 文化2年︵1805年︶従五位下・大隅守・目付に叙任︵のち播磨守︶。 天保7年︵1836年︶より長崎奉行。天保13年︵1842年︶2月より勘定奉行。弘化2年︵1845年︶より西の丸留守居役。万延元年︵1860年︶より留守居役など要職を歴任した。 文久元年︵1861年︶公武合体のため江戸に居る将軍・徳川家茂のもとへ降嫁する和宮の警護役を務める。 慶応2年︵1866年︶12月に剃髪隠居し、子の中務少輔が早世しているため跡目は養子︵孫︶の八百次郎に継がせた。慶応4年︵1868年︶3月4日没。墓は品川区上大崎の最上寺にある。 安清は篆書・隷書を得意とする書の達人として知られており、徳川家茂の師範を務めるほどであった。有名な書に、不洗観音寺︵倉敷市中帯江︶の本堂﹁縁起額﹂︵天保10年︶と昌平黌の﹁論語﹂の一節を書いた屏風︵安政3年︶がある。寿蔵碑︵生前に作る墓碑︶の文は成島司直が撰し、書は自身が行っている[1]。系譜[編集]
脚注[編集]
(一)^ 柴田光彦﹁忘れられた碑の中から -戸川安清寿蔵碑をめぐって-﹂﹃書学書道史研究﹄第8号、書学書道史学会、1998年、77-85頁、doi:10.11166/shogakushodoshi1991.1998.77。
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