戸田氏宥
戸田氏宥 | |
---|---|
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
生誕 |
安永9年(1780年) ※天明2年3月21日(1782年5月3日)とも |
死没 | 嘉永5年3月17日(1852年5月5日) |
改名 | 忠熊(幼名)、氏宥 |
別名 | 泰五郎、一学(通称) |
墓所 | 東京都文京区向丘の蓮光寺 |
官位 | 従五位下、淡路守、河内守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 美濃大垣新田藩主(三河畑村藩主) |
氏族 | 戸田氏 |
父母 |
父:戸田忠諏、母:西郷員総養女(伊丹勝房の娘) 養父:戸田氏興 |
兄弟 | 忠従、忠集、忠宥 |
妻 | 五島盛運の娘 |
子 |
娘(柳沢光昭正室)、娘(戸田光武正室)、 養子:氏綏 |
戸田 氏宥︵とだ うじひろ︶は、美濃大垣新田藩︵三河畑村藩︶の第6代藩主。大垣藩戸田家分家6代。
安永9年︵1780年︶、7000石を領する大身旗本の戸田忠諏の四男として生まれる。母は西郷員総の養女︵伊丹勝房の娘︶。寛政10年︵1798年︶1月、第5代藩主・戸田氏興が重病に倒れたため、末期養子として迎えられる。そして氏興が死去したため、3月19日に家督を継いだ。12月16日には従五位下、淡路守に叙位・任官される。
文政9年︵1826年︶6月21日、家督を養子の氏綏に譲って隠居した。それにともない、官名を河内守に改めた。天保14年︵1843年︶2月15日、剃髪して靖翁と称した。嘉永5年︵1852年︶3月17日、73歳で死去した。