柳沢光昭
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柳沢 光昭︵やなぎさわ みつてる、文政6年6月14日︵1823年7月21日︶ - 明治33年︵1900年︶4月4日︶は、越後黒川藩の第7代藩主。大和郡山藩主・柳沢保泰の十男。正室は小笠原貞哲の娘、継室は戸田氏宥の娘。子は柳沢保恵︵長男︶、京極高敏︵次男︶、娘︵柳沢光邦正室︶。官位は従五位下、伊勢守、伊賀守、民部少輔。
天保7年︵1836年︶、先代藩主・光被が死去した後、その養子となって家督を相続する。安政年間には黒川陣屋内に藩校﹁弘道館﹂を設け、藩士の子弟教育に力を入れた。文久3年︵1863年︶奏者番、翌元治元年︵1864年︶には学問所奉行となった。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加するも、終始消極的な立場にとどまっていた。慶応4年︵1868年︶閏4月20日、家督を娘婿の光邦に譲り隠居した︵当時、まだ男子が生まれていなかったため︶。明治33年︵1900年︶に死去した。
系譜[編集]
父母 ●柳沢保泰︵実父︶ ●柳沢光被︵養父︶ 正室、継室 ●小笠原邦子 - 小笠原貞哲の娘︵正室︶ ●戸田氏宥の娘︵継室︶ 子女 ●柳沢保恵︵長男︶ ●京極高敏︵次男︶ ●柳沢光邦正室 養子栄典[編集]
脚注[編集]
- ^ 『官報』第5025号「叙任及辞令」1900年4月6日。