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斡離不︵オリブ︶は、金の皇族。女真名は斡魯補︵オルブ︶とも。漢名は宗望。初代皇帝の太祖阿骨打︵アクダ︶の次男。金の名将として知られる。
妃の紇石烈氏︵後の欽憲太皇太后︶の長男として生まれた。初め、父帝の征戦に従い、常に側近にあった。天輔6年︵1122年︶、兵を率いて遼の天祚帝︵耶律延禧︶を追い、軍功を挙げた。父帝に従って燕京を平定し、副都統となった。天会元年︵1123年︶、千人の兵をもって奇襲し、天祚帝の大軍を大いに破った。
太祖阿骨打は1123年に死去するが、その弟の太宗呉乞買︵ウキマイ︶が後を継いで遼との戦いを続け、1125年に逃れていた皇帝天祚帝を捕らえ、遼を完全に滅ぼして内モンゴルを支配した[1][2][3]。ところが、宋は金朝との間で結んだ﹁海上の盟﹂︵1120年︶を守らず、背信行為が露見した[1]。金と宋は対立するようになった︵宋金戦争︶。
太宗は斡離不らに宋への侵攻を命じ、天会3年︵1125年︶10月、斡離不は河北の平州より進発して北宋を攻め、白河にいたり、12月に郭薬師の軍を白河で破った。撒改︵サガイ︶の子の粘没喝︵ネメガ、宗翰︶は山西方面から宋に侵入し、両軍は華北一帯を席巻して[4]、天会4年︵1126年︶正月には北宋の都の開封を包囲した[1][3][5]。8月に斡離不は右副元帥となり、再び宋を攻めた。12月に左副元帥の粘没喝とともに開封を包囲、宋に対して和平に傾き、領土・賠償金・和親政策︵自身や他の皇族に徽宗の帝姫たちを妾妻として差し出させる︶をもって講和を認めようとしたが、他の将帥の反対のため交渉に失敗した。
凱旋した後、天会5年6月21日︵1127年7月31日︶に傷寒で急死した[注釈 1]。上京に葬された。天会13年︵1135年︶、魏王を追贈された。皇統3年︵1143年︶、熙宗により晋王を再追贈された。大定3年︵1163年︶、宋王を再追贈され、﹁桓粛﹂と諡された。
●側室‥耶律余里衍 - 遼の蜀国公主。
●側室‥趙福金 - 北宋の茂徳帝姫。徽宗の娘。
●側室‥張氏 - 北宋の韋賢妃の侍女。
●男子‥完顔斉、完顔京、完顔文
●女子‥昭寧公主 什古
伝記資料[編集]
●﹃宋史﹄
●﹃靖康稗史箋證﹄
●﹃金史﹄
参考文献[編集]