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新倉 俊一︵にいくら しゅんいち、1932年7月5日 - 2002年3月7日︶は、日本のフランス文学者。中世文学専攻。東京大学名誉教授。財団法人日仏会館元常務理事。従四位。
横浜市出身。東京大学教養学科フランス科を経て同大学院人文科学研究科仏語仏文学修士課程、同博士課程を了えてから二度のフランス留学し、立教大学、東京大学で教鞭をとり、1980年から82年まではパリ国際大学都市日本館館長を務めた。日本フランス語フランス文学会の渉外委員長、﹁東京の夏﹂音楽祭の企画構成責任者となり、留学生試験選考委員や日仏会館理事・評議員を務めるなど、広範な仕事を精力的にこなした[1]。
専門の中世に関する著書は﹃ヨーロッパ中世人の世界﹄︵筑摩書房、1983年︶、﹃フランス中世断章﹄︵岩波書店、1993年、﹃中世を旅する﹄︵白水社、1999年︶ほかがあり、共著、翻訳も多いが、重要な共同作業の成果として﹃スタンダード和仏辞典﹄︵大修館、1960年︶、﹃事典・現代のフランス﹄︵大修館、1977年︶などの執筆・編集がある。執筆者たちの緊密な協同的営為を、稲生永は﹁カマラドリー﹂と呼んでいる︵﹃現代文学﹄65号、2002年7月新倉俊一追悼号︶。これらの業績に対して1985年にはフランス政府からOfficier des Palmes Académiques︵教育文化功労賞︶を叙勲され、また1971年度と1976年度の毎日出版文化賞、1992年度翻訳出版文化賞を受賞した[1]。
東京大学を退職後は帝京大学文学部へ移り、国際文化学科の学科長などを務めていたが、骨髄性白血病のため2001年3月31日に帝京大学を退職し、2002年3月7日、石神井の自宅で死去した[1]。
﹁恋愛、12世紀の発明﹂という言葉を日本で広めた人だが、実際にはトゥルバドゥールの恋愛詩にそれほどの独自性がなかったことは、ピーター・ドロンケなどによって既に明らかにされている。ただし新倉自身はそれほど事態を単純に捉えていたわけではない[要出典]。
詩人西脇順三郎の弟子で、アメリカ文学者の新倉俊一︵としかず︶とは年齢も近く、字面も全く同名なので、よく間違えられる。妻の新倉朗子もフランス文学者で童話民話を訳している。娘はジャポニスム・装飾美術研究者の松村恵理。その夫松村剛東大教授もフランス文学者で、夫人や新倉との共訳書がある。なお師の一人はフランス文学者渡辺一夫であった[要出典]。