日政
日政︵にっせい、通称‥元政上人︵げんせいしょうにん︶元和9年2月23日︵1623年3月23日︶- 寛文8年2月18日︵1668年3月30日︶[1]︶は、江戸時代前期の日蓮宗の僧・漢詩人。山城・深草瑞光寺 (京都市)を開山した。日政は諱であり[1]、俗名は石井元政︵もとまさ︶。幼名は源八郎、俊平。号は妙子・泰堂・空子・幻子・不可思議など[1]。
生涯[編集]
京都一条に地下︵じげ︶官人・石井元好の五男として生まれる。姉は彦根藩主井伊直孝の側室・春光院である[1]。9歳の時に建仁寺・大統院に入り、九厳和尚の薫陶を受ける。後に近江・彦根に移り、13歳から城主の井伊直孝に仕える。松永貞徳に和歌も学んだ[1]。
幼少から山水を愛し、たびたび京都に赴いていたところ、泉涌寺・雲龍院の如周が法華経を講ずるのを聴いて感ずるところあり、病弱なこともあって1649年︵慶安2年︶に職を辞し[1]、出家して日蓮宗・妙顕寺の日豊について僧となる[1]。中正院の日護・本性寺の日徳と交流し、日蓮宗の秘奥を究めた。1655年︵明暦元年︶33歳で伏見深草に称心庵︵後の瑞光寺︶を営み、竹葉庵と号し仏道の修行に励んだ。翌年、79歳になる母の妙種を伴い身延山に参詣し、帰り道に江戸の井伊邸に母を託し、自身は日本橋に宿を取った。甥にあたる井伊直澄はたびたび自分の屋敷に招待したが、日政はそれを固辞し、母を連れて京に帰った。その年に庵のそばに仏殿などを開き、深草山瑞光寺を開山し、法華経修行の道場とし、門下の宜翁を上座としてともに修行した。修行の合間に詩歌を楽しみ、熊沢蕃山・北村季吟など多数の著名人と交友関係があった。
1667年︵寛文7年︶に母の妙種の喪を営み、摂津の高槻にいたり一月あまり留まるがその翌年正月に病を得て、自ら死期を悟って深草に帰る。日燈に後事を託して寂す。享年46。遺体は称心庵のそばに葬られ、竹三竿を植えて墓標に代えたという。辞世として﹁鷲の山 常にすむてふ 峰の月 かりにあらはれ かりにかくれて﹂という歌がある。