早田晧
早田 晧︵はやた ひろし、1903年12月 - 1985年8月19日︶は、ハンセン病患者を治療した日本の医師。医学博士。
前半生[編集]
1903年12月東京港区に生まれる。[1]私立ハンセン病施設身延深敬園を設立した縁戚にあたる僧侶綱脇龍妙に説得され、ハンセン病医学に進むことを決意した。第一高等学校︵現東京大学教養部︶を経て、金沢医科大学︵旧制︶︵現金沢大学医学部︶卒業。1930年から、福岡の生︵いき︶の松原にある身延深敬病院分院に勤務しハンセン病の患者の診療にあたる。九州大学で研究し1935年医学博士の学位を得た。論文名は﹁癩血清化学反応(MHH反応) ﹂[2]。この反応は指導教授皆見省吾らの研究によるもので、癩、非癩の区別ができるが、操作が極めて煩雑で外に行う人はいなかった。[3]1936年 分院が軍部に接収され長島愛生園に移り[1]、光田健輔の指導を受ける。1944年、すでに戦場になりそうな、沖縄愛楽園の園長になり、患者を戦火から守るのに苦労した。当時の業績[編集]
[4] ●らい免疫化学療法の効果 1937年 第10回らい学会 ●愛生丸の効果 1937年 日本公衆保険会誌 ●MMH反応について 1938年 東西医学 5,3 ●三重県下のらい 1938年 第12回らい学会 ●某県下におけるらい病勢について 1939年 日本公衆保健協会誌 ●らい屍における Foetus in foetusの興味ある所見 1939年 第13回らい学会 ●らい性結節性紅斑におけるクレプチオンの効果 1939年 最新治療 15,11 ●らい患者の下肢切断以降 1940年 第14回らい学会 ●愛生(長島愛生園の雑誌への投稿 ●再び伊勢へ 1938年 伊勢の初旅 ︵1︶ 1939年 伊勢の初旅 ︵続︶ 1939年 ●無らい県(山口県︶を征く 1939年 高知県を急速に浄化せよ 1941年光田健輔に関して[編集]
1931年 生の松原の深敬病院勤務中に、綱脇の命令で愛生園にいき、初対面を果たす。母校金沢医大の土肥章司教授からかねて、偉いと伺っていたので、心が震えた。光田は﹁この仕事にたずさわった者は、決して後を振る返ってはいけない﹂といわれ感銘を受けた。早田は愛生園勤務中、福岡検診記を書いたが、皮膚の中のらい菌が陰性の場合は、感染の恐れはないから、家庭においてもいだろうと書いた。光田は割愛を指示し、フィリッピンではこの方式をやっているが、いつまでたっても根絶しない﹂と言った。軽快退院しても再発はあるので、光田の意見に納得した。[5]屋我地島のドン・キホーテ[編集]
沖縄での苦労については、屋我地島(沖縄愛楽園の所在地︶のドン・キホーテと題する家族の記録がある。沖縄へのこの人事は重要と思われるが、前の療養所の自治会の単行本、﹁隔絶の里程﹂﹁曙の潮風﹂には記載がない。[6] 父が沖縄屋我地島のハンセン病国立療養所・愛楽園に園長として赴任したのは、昭和19年3月のことであった。父は赴任にあたり、呑気に母と8歳の兄、4歳の私、1歳の妹を引き連れて、鹿児島から沖縄行きの船に乗ろうと出向いて行った。ところが船会社に行ってびっくり仰天した。遺言書と死亡した時の通知先を書けという。その上、出航の時間は秘密だから毎朝聞きに来いと言うのだ。5日目に、やっと出航となった。どうやら船に乗れても、潜水艦攻撃をかわす﹃のの字航法﹄で、時速はわずか6ノットという亀の這うような速さで進む。通りがかった奄美大島の名瀬湾入り口には、輸送船が赤い腹を出して何隻もひっくり返っている。︵中略︶ゆっくりと用心深く進む船は、魚雷攻撃にもあわず無事に沖縄に着いた。︵中略︶園内も猛烈な機銃掃射と爆撃に遭い、被害は、60棟、2000坪にも及んだ。治療室、重病舎、礼拝堂、作業所、入園者の暮らす病棟は目茶目茶に爆破されて跡形もなく焼け落ちてしまったが、修理すればなんとか使える建物もあった。︵中略︶まもなく園は米軍に接収され、とりあえず、テント病棟が設置された。(米軍占領後は︶毎週訪れる米軍の医師たちと、父たち日本の医師は、敵味方・国境を越えて、ハンセン病患者の病型や治療法、血液検査による早期発見法など、お互いの知識を熱心に交換し合った。 父たち日本の医者は、及びもつかないような米国の能率的な研究方法や、機械力の格段の進歩の差に感心したり、貴重な文献を贈られたりして感激した。 ●﹃屋我地島のドン・キホーテ﹄︵大白泰子・著︶沖縄愛楽園にて[編集]
入所者の証言集によると、園長のあだ名はコーレーグス︵唐辛子︶であった。いいけど、辛くてきついという意味である[7]。入所者に断種手術をしていた[8]。食糧事情のために、山に野菜を植えさせた[9]泥棒でも人を傷つけない泥棒ならよい、と言った[10]。日本軍軍部の命令に従わず、手榴弾を患者に配らなかっという功績が記録されている。早田らが作らせたた防空壕は早田壕と命名され、作業がきつかったという入所者の苦情の記録がある。壕は現在でも残されている。米軍による写真が残されているが、その中に爆撃を受けた跡地で病理解剖をしていた写真がある。ネガは沖縄県公文書館に保存されている。戦争時の苦労については、部下の医局長の松田ナミによる記載もある。小笠原登との論争[編集]
早田は終戦前であるが、ハンセン病政策について、小笠原登と論争をしている。早田は、療養所への入所が、いかに癩者にとっても福音であるかを強調しつつ、小笠原について次のような評価を下している。 ︵癩は不治であるが︶然し治らないからあきらめて療養所に入院しろと云ったところで肯んずるものは殆どない。結局、軽快するから治療せよとすすめるが、一度療養所の門をくぐった時、病者の過半は再び社会生活への欲望を断念するほどに住みやすい處である。最近においては、岡山医大では、癩と診断したものは殆ど愛生園への紹介の労をとる。経済的な圧迫を加えられずに送りうる園内生活に感謝の念を生じないものは一人もない。その後[編集]
終戦後、日本本土のハンセン病療養所などに勤務し、ハンセン病の治療に係わり続けた。
●1946年 多磨全生園に転任。
●1948年 静岡県三島の保健所に移る。
●1950年 三島市にて開業。時々身延深敬病院に出向いて患者の治療をしていた。[11]
●1956年11月 身延深敬病院創立50周年記念式に光田健輔や横田篤三などと共に出席[12]。