星野恒
星野 恒︵ほしの ひさし、1839年8月15日︿天保10年7月7日﹀ - 1917年︿大正6年﹀9月10日︶は、日本の国史学者・漢学者、東京帝国大学教授。名は世恒、字は徳天、通称は恒太郎︵ひろたろう︶、号は豊城。
来歴[編集]
越後国蒲原郡白根町︵現在の新潟県新潟市︶生まれ。万延元年︵1860年︶江戸に出て塩谷宕陰について漢学を学び、明治8年︵1875年︶修史事業に参加、明治14年︵1881年︶編修官に任ぜられ、明治21年︵1888年︶10月帝国大学文科大学︵現在の東大文学部︶教授に転任、明治24年︵1891年︶8月文学博士の学位を受け[1][2]、明治39年︵1906年︶帝国学士院会員となり、明治44年︵1911年︶史学会評議員長となる。 大正6年︵1917年︶、脳出血のため死去[3]。業績[編集]
●明治12年︵1879年︶から明治18年︵1885年︶にかけて﹃国史纂要﹄を著す。 ●1890年、重野安繹、久米邦武とともに﹃国史眼﹄を編纂した。同1890年、﹁本邦ノ人種言語ニ付鄙考ヲ述テ世ノ真心愛国者イ質ス﹂と題する論文を発表、スサノオが﹁新羅の主﹂であり、朝鮮と日本はもとはひとつの国であったと主張、のちに日鮮同祖論として形成される言説の先駆となった。 ●明治26年︵1893年︶、久米邦武筆禍事件により久米、重野とともに編修官を解任されている。 ●明治32年︵1899年︶、﹃竹内式部君事蹟考﹄を発表。 ●明治42年︵1909年︶﹃史学叢説﹄を著した。著書[編集]
単著[編集]
●﹃竹内式部君事蹟考﹄冨山房、1899年7月。 NCID BN10314791。全国書誌番号:58005253。草稿[編集]
●星野幹・星野彬 編﹃史学叢説﹄ 全2巻、冨山房、1909年3月-1909年9月。 NCID BN0986422X。全国書誌番号:42030117 全国書誌番号:57012052 全国書誌番号:48016248。編集[編集]
●﹃国史纂要﹄ 全13巻、重野安繹閲、尚不愧山房、1879年10月-1885年1月。 NCID BA33702211。全国書誌番号:40011987。 ●重野安繹・久米邦武・星野恒 編﹃稿本国史眼﹄ 全7巻、大成館、1890年-1891年。 NCID BN09180723。全国書誌番号:60006884。校閲[編集]
●高津鍬三郎、三上参次、磯田良﹃にほんれきし教科書﹄ 上中下巻、重野安繹・星野恒校閲、大日本図書、1894年7月。 NCID BA36616615。全国書誌番号:40012974。栄典・授章・授賞[編集]
位階 ●1890年︵明治23年︶11月1日 - 従六位[4] ●1913年︵大正2年︶8月11日 - 従三位[5] 勲章等 ●1889年︵明治22年︶11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[6] ●1897年︵明治30年︶12月28日 - 勲五等瑞宝章[7] ●1910年︵明治43年︶6月24日 - 勲二等瑞宝章[8]脚注[編集]
(一)^ ﹃官報﹄第2447号、明治24年8月25日、p.250
(二)^ 8月14日に文部省で行われた学位授与式において星野は学位承受者総代として謝辞を述べている。︵﹃官報﹄第2448号、明治24年8月26日、p.261︶
(三)^ 服部敏良﹃事典有名人の死亡診断 近代編﹄︵吉川弘文館、2010年︶269頁
(四)^ ﹃官報﹄第2207号﹁叙任及辞令﹂1890年11月6日。
(五)^ ﹃官報﹄第311号﹁叙任及辞令﹂1913年8月12日。
(六)^ ﹃官報﹄第1937号﹁叙任及辞令﹂1889年12月11日。
(七)^ ﹃官報﹄第4350号﹁叙任及辞令﹂1898年1月4日。
(八)^ ﹃官報﹄第8105号﹁叙任及辞令﹂1910年6月29日。
参考文献[編集]
●花房吉太郎, 山本源太 編﹃日本博士全伝﹄p42-45,文学博士 星野恒 君,博文館,1892. 国立国会図書館デジタルコレクション ●中尾尭﹁星野恒﹂︵﹃日本古文書学講座﹄第9巻月報、雄山閣、1977年︶ ●中村昌司﹁星野恒﹂︵﹃郷土の碩学﹄、新潟日報事業社、2005年︶関連事項[編集]
●明治政府の修史事業外部リンク[編集]
●﹃星野恒﹄ - コトバンク ●﹃星野 恒﹄ - コトバンク ●星野恒 (初版) - ﹃人事興信録﹄データベース ●星野恒 (第4版) - ﹃人事興信録﹄データベース公職 | ||
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先代 重野安繹(→廃止) 史誌編纂委員長 |
東京帝国大学文科大学史料編纂掛物品管理者 1897年 - 1899年 帝国大学文科大学史料編纂掛物品管理者 1895年 - 1897年 |
次代 三上参次 文科大学史料編纂掛主任 |
学職 | ||
先代 重野安繹 会長 |
史学会評議員長 1910年 - 1917年 |
次代 坪井久馬三 |