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家譜・景山道遠家[編集]
●先祖は景山道観と申候者に御座候。道観より龍造父立碩迄世々伯耆会見郡中野村え住居仕り同族も数多蔓延仕り居り申候後鳥羽帝隠岐え御遷幸之節、御宿申上候事村之故老申伝居候得共、元禄元年焼失之刻家譜類残らず焼失仕り候由(下略)
参考文献[編集]
●﹃鳥取県百傑伝﹄昭和45年、535-543頁
●﹃境港市史 上巻﹄昭和61年、438-448頁
●﹃境港市史 下巻﹄昭和61年、169-170頁
関連人物[編集]
●門脇重綾
●三条実万
●三条公睦
●三条実美
●松田道之
●梁川星巌
(一)^ ﹃鳥取藩史1藩士列伝﹄に﹁弘化元年、偶々三条実万卿の知る処と成り、卿龍造に儒を以て立つ可きを勧め、二年学習院の経理を佐けしめ、並に其公子の侍読たらしむ﹂と記す。公睦・実美の二子のうちの一人はのちの維新の元勲と称される三条実美である。父の遺志を継いで尊王攘夷運動、討幕運動の苦節の道を維新まで歩み続けた公卿である。龍造が三条家に仕えた時三条実美は9歳の少年であった。侍読は﹁じどく﹂、﹁じとう﹂とも読み、そば近くにあって書を講ずる学者をいう。維新後太政大臣となり新政府の中枢となった三条実美の少年期の精神形成に龍造の人柄と教養は何らかの影響を与えたことであろう︵﹃境港市史 上巻﹄昭和61年、441-442頁︶
(二)^ 尚徳館教授に任じられた年について、﹃境港市史 上巻︵昭和61年︶﹄438頁、﹃鳥取県百傑伝﹄537頁には“安政元年︵1854年︶”、﹃境港市史 下巻︵昭和61年︶﹄では“嘉永5年︵1852年︶”となっている
(三)^ 田尻佐 編﹃贈位諸賢伝 増補版 上﹄︵近藤出版社、1975年︶特旨贈位年表 p.53
外部リンク[編集]
●とっとりデジタルコレクション--景山龍造
●︻市︼14.景山家墓地