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1993年に映画化された。ポニーキャニオンからDVDが発売されている。配給収入は1.5億円[1]。
あらすじ︵映画︶[編集]
太平洋戦争末期の夏、九州の鳥栖国民学校︵現・鳥栖市立鳥栖小学校︶に陸軍の二人の特攻隊員︵特別操縦見習士官︶がやって来た。その一人は上野の音楽学校のピアノ科の学生で目達原飛行場から明日、知覧に向かうので今生の思い出にグランドピアノでベートーヴェンのピアノソナタ第14番﹁月光﹂を弾く。﹁海ゆかば﹂で送ろうとすると、熊本師範から音楽の教師になりたかったという風間が弾く。
演奏に立ち会った当時の教師、吉岡公子がピアノが老朽化のため廃棄されることを聞き、その保存のため小学校でその思い出を語った。﹁二人に帰ってきて﹃月光﹄を弾いてほしかったけど、帰ってこなかったとです﹂という。テレビや新聞で報道されると、大きな反響を呼び、修復も始まったが、二人の特攻隊員の名前を吉岡は聞いてなかった。ピアノを弾いたと思われる元少尉・風間森介が何も語らないのでその存在が疑われる。ラジオ局の石田りえはドキュメンタリー作家の三池安文と共に﹁忘れたいことがあるのかな﹂と言いながら、生き残った特攻隊員に取材を重ねる。知覧特攻平和会館で﹃月光﹄を弾いた海野光彦少尉の遺影を発見。大牟田市にいる元隊員から公の記録にはなかった振武寮の存在を知る。そこでは、特攻の途中で帰還した隊員が幽閉されていた。元隊員は、戦死したことになっているのに生きている負い目を語る。風間の閉ざされた心は徐々に開き、語り始める。
特攻前夜、ドイツ民謡﹁故郷を離るる歌﹂を歌って出撃。エンジンの不調で引き返すと、上官からピアノを弾いたことまで軍人魂を忘れていると言われ、振武寮で屈辱と絶望の日々を過ごす。海野の妹で風間の妻は、振武寮のことは初めて聞いたという。そして鳥栖に向かうという。
風間が﹁海野は戦死しました、私は生き残っております﹂というのに、吉岡は﹁よう生きとって下さいました﹂という。半世紀を経て思い出のピアノと再会した風間は当時を振り返りながら﹃月光﹄を奏でた。
- ^ 「日本映画フリーブッキング作品配給収入」『キネマ旬報』1994年(平成6年)2月下旬号、キネマ旬報社、1994年、155頁。
- ^ 『そして、風が走り抜けて行った - ジャズピアニスト・守安祥太郎の生涯』植田紗加栄、講談社、1997年、p108 (林七郎や守安らは裕福な育ちで家にピアノがあり、ピアノの家庭教師を雇うような環境で育ち、ピアノを趣味としていた)
関連項目[編集]
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