本多俊民
本多 俊民︵ほんだ としたみ、文政7年3月27日︵1824年4月26日︶ - 明治20年︵1887年︶3月18日︶は、幕末・明治の尾張藩士・歌人。通称は熊之進、忠左衛門、藤太。雅号は葵苑・風翁など、字は伯章︵ただし、後に中国の慣例であるとしてこれを廃した︶。
本多俊茂の子。10歳の頃より馬場守信・氷室長翁に和歌を、植松茂岳に国学を学ぶ。後に間島冬道・羽島春隆と深く結んだ。嘉永5年︵1853年︶に家督を継いで250石を与えられ、使番格書院番頭・旗奉行などを歴任、第1次長州征伐や戊辰戦争に参加、廃藩置県後は若宮八幡社[要曖昧さ回避]祀官を務めた後に三河国碧海郡に帰農して和歌に勤しんだ。
参考文献[編集]
- 家臣人名事典編纂委員会 編『三百藩家臣人名事典 3』(新人物往来社、1988年) ISBN 978-4-404-01503-7