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本多 忠居︵ほんだ ただおき︶は、江戸時代中期から後期にかけての大名。播磨国山崎藩の第6代藩主。官位は従五位下大和守。政信系本多家7代。
第5代藩主・本多忠可の長男として誕生。母は本多忠辰の娘・熊姫︵本多忠堯の養女で異母妹︶。幼名は権次郎。
天明8年︵1788年︶、父の隠居により跡を継ぐ︵隠居はなかったともいわれる︶が、寛政6年︵1794年︶に父が死去するまでは実権は父が握っていた。寛政6年︵1794年︶から藩政を執るが、聡明な父と違って暗愚だった。翌寛政7年︵1795年︶11月12日、父の時代に改革を成功させた功臣である佐藤善五右衛門を、己の面前で藩士に斬り捨てさせた。これは、佐藤が生きている限り藩政を完全に掌握できないことと、先代における佐藤の功績を嫉妬した一派が忠居に讒言し、それを受け入れたためと言われているが、佐藤はこれが原因で3日後に世を去った。その後、大番頭となったが、文化5年︵1808年︶に将軍・徳川家斉に対して不敬な態度を取ったため、家斉の怒りを買って奉公する必要なしとまで言われた。
このため文化9年︵1812年︶10月18日、病気を理由に家督を次男の忠敬に譲って隠居した。文政2年︵1819年︶2月14日に49歳で死去した。法号は憲隆院前和州宰吏誉至誠忠道大居士。墓所は東京都江東区三好の雲光院。
忠可の時代に再建された財政は、この忠居の時代に再び破綻している。
本多氏 山崎藩6代藩主 (1788年 - 1812年) |
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池田家(輝澄系) |
- 池田輝澄1615-1640
- 家中不取締りを理由に改易
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松井松平家 |
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池田家(恒元系) |
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本多家 |
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