李氏朝鮮の学問
李氏朝鮮時代の学問は、全般的に、儒学の一派である性理学が隆盛したし、中期から、道教が道学という名前で広がり始めた。後期には、﹁実事求是﹂︵事実に基づき真理を求める︶と﹁利用厚生﹂︵物を役立てて用い生活を豊かにする︶を基礎に実学が起こり、初めは異端として排斥を受けた陽明学も根を下ろした。
性理学[編集]
太祖李成桂を助けて李氏朝鮮の建国に大きい功を立てた鄭道伝・趙俊などは、皆が朱子学の信奉者だった。彼らは儒学的な理想を新王朝に実現させようと、政治・宗教の指導理念に儒教を採択すると同時に、仏教を猛烈に排斥させた。李氏朝鮮では君主の進講をはじめとして、成均館・四学・郷校などの教育機関や科挙などにもその科目が採択され、国の政治は儒教政治のようになった。 一方、新しい王朝で官職につかず節義を守った吉再などは山林に入り、弟子たちが教育と朱子学の研究に力を尽くし、彼らの間で朱子学はさらに発達するようになった。吉再の門下で学んだ金淑滋・金宗直及びその後に続く金宏弼・鄭汝昌などの新進士類たちも、世宗の時からしだいに官界に就くようになり、また世宗の時に設置された集賢殿を通じて立派な儒学者たちがたくさん溢れ出た。そんな中で、世祖の簒位を契機に、儒学者は地方・思想・処世上のさまざまな学派として勲旧派・節義派・清談派・士林派の四つに大きく分かれた。勲旧派は建国初期から朝廷に基盤を持ち、継続して政権を握って来た学者だったのに対し、節義派や清談派は節義を守ったり清談だけに没頭し、現実の政権からは離れていたので、結局は勲旧派との対立的な勢力を成したのは士林派だった。 士林派は、初めは勲旧派と不和が生じ何回も迫害を受けたが、後には継続して要職に登用されて政治に直接参与する一方、正統的な朱子学を継承しながら李氏朝鮮時代の儒学の主流をなした。特に中宗の時に金宏弼の学統を継いだ趙光祖は、君主の厚い信任を受けて理想的な道学政治を実現するために、至治主義を標榜して儒教的教化事業を多くの方面で大きく興した事もあった。しかしこの時までの学風は、文字・訓詁を主にした。そのうち己卯士禍によって趙光祖以下多くの士類たちが死刑あるいは追い出されると、残りの士類たちは政界に進む考えを捨てて学問にだけ熱中する風潮が起き、学問の傾向も思索と理論の方面に一変して、朱子学の宇宙論、心理説などが深く研究された。この学風の先駆を成した学者は徐敬徳と李彦迪だったが、彼らの後を継いで現れた明宗・宣祖の時の李滉・李珥は特に目立ち、朝鮮儒学史上の代表的な学者として尊敬を受けている。しかしその後は、党争と結びつき、学問に対する研究は活発ではなかった。さらに朱子学の隆盛により台頭した礼論は、うるさい服制問題を惹起して党争に利用された。 李氏朝鮮時代の儒学は排他的だったので、中国で盛行だった儒学の分派である陽明学は、朝鮮では異端視されただけでなく、同じ朱子学派でも朱子と経註に反対してひどい非難を受けた。学説の違いは党争を誘発させ、政治・社会面にも深く影響を及ぼした。李氏朝鮮後期になってからは、清の考証学と西洋文物などに対する知識を得て貢献できる学問である実学が起き、柳馨遠・李瀷・丁若鏞など、この方面に目立つ学者たちが出て、新しい学風を見せた。しかし、これらも勿論、朱子学の枠から完全に脱け出すことはできなかった。 一方、大韓帝国末期の崔益鉉のような儒学者たちは、朱子学の名分論などを掲げて抗日運動を実践に移したこともあった。儒学を国教のように崇めた朝鮮では、儒学思想を社会に広く普及するにも力を尽くした。高麗末期に朱子学と一緒に伝来された朱子の家礼、家廟などの普及が、両班層はもちろん一般庶民にも儒教的な倫理観念を一般化させることに大きく作用した。またその倫理道徳を具体的に庶民に教えるために、孝子・忠臣・烈女などの事蹟を編纂したし、地方官たちもその教化に力を尽くした。このように儒学が朝鮮社会に及ぼした功績もあったが、一方では家族制度と階級思想を厳格にしたし、形式的な礼節と事大主義思想を生んで、商工業・芸術などを賤視するようにするなど弊害が多かった。実学[編集]
「実学 (朝鮮)」も参照
柳馨遠の学風を続け、実学を一つの学派として形成したのは、粛宗の時の李瀷だった。彼の代表的な著書は﹃星湖僿説﹄で、ここには彼の多彩な学風が現れている。李瀷の門下には多くの弟子が輩出され、実学は、漸次、学界の主導的な学問として登場した。
その後英祖・正祖・純祖の時になって、実学は極盛期に達した。さらに、正祖の時には、奎章閣という学問研究所が設置されて、実学者たちが登用され、庶子出身の学者たちも採用された。こうして多くの有用な書籍が編纂されたが、英祖の時には﹃続大典﹄・﹃東国文献備考﹄・﹃続五礼儀﹄・﹃続兵将図説﹄などが編纂された。また正祖の時には﹃大典通編﹄・﹃文苑黼黻﹄・﹃同文彙攷﹄・﹃秋官志﹄・﹃度支志﹄・﹃武芸図譜通志﹄・﹃海東農書﹄・﹃全韻玉篇﹄などがある。このような編纂事業の盛行は、世宗・成宗の時にも並ぶ盛況だった。
このような英祖、正祖時代の文運の興起に加え、新たに清朝考証学の影響を受けて、実学はさらに隆盛になった。こうして数多くの実学の大家たちが現れ、それぞれ特色ある学風を持って燦爛たる学問的成果を生んだ。
すなわち、歴史には安鼎福の﹃東史綱目﹄、韓致奫の﹃海東繹史﹄、李肯翊の﹃燃藜室記述﹄、柳得恭の﹃四郡志﹄・﹃渤海考﹄があり、地理には李重煥の﹃擇里志﹄、申景濬の﹃疆界考﹄・﹃道路考﹄・﹃山水考﹄、成海応の﹃東国名山記﹄、丁若鏞の﹃疆域考﹄・﹃大東水経﹄などがあり、鄭尚驥の﹃八道分図﹄、金正浩の﹃大東輿地図﹄があった。
また国語学には申景濬の﹃訓民正音韻解﹄、柳僖の﹃諺文志﹄が有名で、金石学には金正喜の﹃金石過眼録﹄、農学には徐有榘の﹃林園経済志﹄、動物学には丁若銓の﹃茲山魚譜﹄、医学には丁若鏞の﹃麻科会通﹄があった。
このような中で、特に丁若鏞は多くの方面で立派な業績を残し、実学最大の学者と呼ばれている。彼の学問的業績の中で﹃経世遺表﹄・﹃牧民心書﹄・﹃欽欽新書﹄の3部作は最も輝く部分だった。実学が現実から出発したと言ったが、上で例を挙げた実学者たちは、たいてい農村を土台として朝鮮社会の現実を改革しようとした。だから彼らの学問は制度上の改革に重点を置く経世致用の学問だった。彼らの思考は多分に復古的な傾向を持っており、彼らが描く理想国家は儒教的であった。
これに対し、朴斉家・朴趾源・洪大容・李徳懋などが代表的存在である実学の他の一派があり、これを北学派と言う。彼らの著述では﹃北学議﹄・﹃熱河日記﹄・﹃湛軒書﹄などがある。