松本長兵衛
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松本 長兵衛 まつもと ちょうべえ | |
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上山市体育協会誌60年のあゆみ | |
生年月日 | 1896年11月23日 |
出生地 | 日本山形県上山市 |
没年月日 | 1978年8月2日(81歳没) |
出身校 | 東京帝国大学農学部 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1958年9月17日 - 1966年9月15日 |
松本 長兵衛︵まつもと ちょうべえ、1896年︿明治29年﹀11月23日[1] - 1978年︿昭和53年﹀8月2日[2][注 1]︶は、日本の政治家。元山形県上山市長︵2期︶。
来歴[編集]
山形県南村山郡上山町出身。東京帝国大学農学部卒業。[3] 1931年に上山町議会議員に初当選。1946年からは、上山町議会議長を務めた。 1947年に上山町長に就任。上山市制施行まで職務を務め、新制中学校の建設整備や、都市計画道路の新設などに尽力した。また、山形県の町村合併審議会会長をつとめ、合併の推進役を担った。山形県町村会長、全国町村会副会長なども務めた。 1954年10月の上山市長選挙に日本社会党公認で出馬し、高橋熊次郎と一騎打ちとなるが、約7,100票の差をつけられて落選[4]。 1958年9月に上山市長選に出馬し、鈴木行男︵遠藤利明の叔父︶との一騎打ちを制して初当選。 1962年9月の市長選では、元市議会議長の永田亀之助︵永田亀昭の父︶との一騎打ちを制して2選。 1966年に市長を引退。 1968年に勲五等双光旭日章を受章。 1974年に斎藤茂吉記念館館長に就任。 1978年8月2日、急性肺炎により死去。同年8月20日に市民会館で告別式が執り行われた。政策[編集]
市長就任挨拶にて、市政の基本的な考え方を﹁他からの力に支配されることのない、正しく明るい市政を公平に行うこと﹂とした。 また、市長就任時は、赤字財政の立て直しが課題となっており、その解消を図った。その一方で、上山中学校や宮川中学校の建設、上水道の拡張、公衆浴場の改築などの設備投資を行った。 上山温泉郷を﹁蔵王と茂吉のふるさとかみのやま﹂をキャッチフレーズとし、1961年のエコーライン開通や国道13号線バイパス供用開始などを利用しながら、市が観光ルートの拠点となるよう施策を展開した。 1964年に市制10周年を迎え、上山小学校南体育館での記念式典、祝賀鼓笛パレード、市内一周駅伝競走、市民憲章の制定、市内各小学校に月桂樹の記念植樹、冊子﹁かみのやま十年のあゆみ﹂全戸配布などを実施した。脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 『全国歴代知事・市長総覧』51頁には「没年不詳」。
出典[編集]
参考文献[編集]
- 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年。