松村淳蔵
松村 淳蔵 | |
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生誕 | 1842年6月26日 |
死没 | 1919年1月7日(76歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1873 - 1891 |
最終階級 | 海軍中将 |
松村 淳蔵︵まつむら じゅんぞう、1842年6月26日︿天保13年﹀5月18日︶ - 1919年︿大正8年﹀1月7日︶は、日本の海軍軍人、華族。海軍中将従三位勲二等男爵。旧姓は市来。旧名は市来 政徳。変名は市村 勘十郎。
若き薩摩の群像
墓所は品川区の海晏寺の非公開墓域にある。
昭和57年︵1982年︶、鹿児島中央駅前東口広場に彫刻家の中村晋也が制作した薩摩藩英国留学生の像﹃若き薩摩の群像[7]﹄の一人として銅像が建てられている。
経歴[編集]
薩摩藩士、市来一兵衛の息子として生れる。1865年、薩摩藩第一次英国留学生として英国に渡り、2年後アメリカに移る。ロンドン大学、米国ラトガース大学で学び、1869年12月に横井佐平太とともにアナポリス海軍兵学校に入学し[1]、1873年5月に卒業して、同年11月に帰国。 1873年12月、海軍中佐任官。海軍兵学寮出勤、英国出張、海軍省本省出勤を経て、1876年8月、海軍兵学校長となり、自ら学んだアナポリス兵学校の教育方式を導入した。その後も三度校長となり、海兵教育の発展に貢献した。 ﹁筑波﹂艦長、﹁扶桑﹂艦長などを経て、1882年6月、海軍少将に進級。海兵校長、中艦隊司令官などを歴任し、1891年7月、海軍中将となり予備役に編入され、1905年11月10日に後備役となり[2]、1910年11月10日に退役した[3]。1887年5月24日、男爵の爵位を授爵し華族となった[4]。 没後爵位は甥の松村政俊︵旧名・市来勘兵衛、1867年生︶が継いだ[5]。政俊の妻イク︵1874年生︶は田尻稲次郎の兄・田尻惣一の長男・田尻逆 (1849年)の娘[6]。その後、田尻稲次郎の三男・秋郷︵1892年生︶が政俊の娘婿となり家督を継いで松村政頴を名乗り、さらに山根一貫の次男︵1903年生︶が養子となり松村弘之として家督を継いだ[5]。墓所・霊廟・銅像[編集]
栄典[編集]
- 位階
- 勲章
脚注[編集]
(一)^ Annual register of the United States Naval Academy. Annapolis, MdU.S. Government Printing Office、1871
(二)^ ﹃官報﹄第6719号、明治38年11月21日。
(三)^ ﹃官報﹄第8218号、明治43年11月11日。
(四)^ ﹃官報﹄第1169号、明治20年5月25日。
(五)^ ab﹃現代華族譜要﹄ 維新史料編纂会編、日本史籍協会、1929、p618
(六)^ 田尻逆﹃人事興信録﹄第4版 [大正4(1915)年1月]
(七)^ “若き薩摩の群像”. 鹿児島県観光連盟. 2014年5月14日閲覧。
(八)^ ﹃官報﹄第1003号﹁叙任及辞令﹂1886年11月1日。
(九)^ ﹃官報﹄第2420号﹁叙任及辞令﹂1891年7月24日。
(十)^ ﹃官報﹄第2478号﹁叙任及辞令﹂1891年10月1日。
参考文献[編集]
●秦郁彦編﹃日本陸海軍総合事典﹄第2版、東京大学出版会、2005年。 ●外山操編﹃陸海軍将官人事総覧 海軍篇﹄芙蓉書房出版、1981年。 ●福川秀樹﹃日本海軍将官辞典﹄芙蓉書房出版、2000年。日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 松村(淳蔵)家初代 1887年 - 1919年 |
次代 松村政穎 |