板倉勝明
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板倉勝明 | |
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時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 文化6年11月11日(1809年12月17日) |
死没 | 安政4年4月10日(1857年5月3日) |
改名 | 鶴五郎・百助(幼名)、勝明 |
別名 | 甘雨、節山 |
戒名 | 智照院殿英俊源雄大居士 |
墓所 | 愛知県西尾市貝吹町の長円寺 |
官位 | 従五位下・伊予守 |
幕府 | 江戸幕府 奏者番 |
主君 | 徳川家斉→家慶→家定 |
藩 | 上野安中藩主 |
氏族 | 板倉氏 |
父母 | 板倉勝尚 |
兄弟 | 勝明、分部光貞、鎌之助、勝殷 |
妻 | 松平頼儀娘 |
子 |
楽子 勝殷 |
板倉 勝明︵いたくら かつあきら︶は、江戸時代後期の大名。上野国安中藩主。官位は従五位下・伊予守。重形系板倉家7代。
略歴[編集]
文化6年︵1809年︶11月11日、先代藩主・板倉勝尚の長男︵庶子︶として誕生した。文政3年︵1820年︶10月27日、父の死去により家督を継いだ。文政7年︵1824年︶11月15日、11代将軍・徳川家斉に拝謁する。同年12月26日、従五位下・伊予守に叙官する。天保14年︵1843年︶12月15日から天保15年︵1844年︶5月18日まで奏者番を務めている。 学問を好んで後藤松陰らと交遊し、藩内でも学問を奨励している。その一方で西洋軍制の導入や杉などの栽培奨励など、積極的な藩政改革を行なっている。安政4年︵1857年︶4月10日に死去。享年49。弟で養子の勝殷が跡を継いだ。 学者藩主と称され、﹃西征起行﹄や﹃東還紀行﹄、﹃遊中禅寺記﹄など多くの著作を残している。系譜[編集]
父母 ●板倉勝尚︵父︶ 正室 ●要 - 松平頼儀の娘 子女 ●楽子 - 黒田直和継室 養子- 板倉勝殷 - 勝尚の三男