桂良
桂良︵けいりょう、グイリャン、満洲語: ᡤᡠᠢᠯᠢᠠᠩ、転写‥guiliang、1785年 - 1862年︶は、清の官僚。字は燕山。満州正紅旗人。グワルギャ氏︵gūwalgiya hala、瓜爾佳氏︶。閩浙総督玉徳︵ユデ︶の子。
生涯[編集]
捐納で官につき、河南按察使、四川・広東・江西布政使を歴任した。道光14年︵1834年︶、河南巡撫に抜擢され、天理教の流れをくむ﹁無生老母﹂信仰を弾圧した。道光19年︵1839年︶に湖広総督、閩浙総督を経て翌道光20年︵1840年︶に雲貴総督に転任となった。雲貴総督として貴州省のミャオ族の反乱を鎮圧した。 道光25年︵1845年︶、兵部尚書兼正白旗漢軍都統となる。その後熱河都統に転出したが、道光28年︵1848年︶に北京に呼び戻され鑲紅旗漢軍都統となり、娘を道光帝の第6皇子奕訢に嫁がせている。咸豊元年︵1851年︶に吏部尚書・福州将軍となり、翌咸豊2年︵1852年︶には兵部尚書となった。 咸豊3年︵1853年︶、太平天国の北伐軍が北京に迫ると、直隷総督のネルギンゲ︵訥爾経額︶の援護にあたったが、ネルギンゲが敗北を重ねたため解任、桂良が直隷総督となった。桂良は都統の勝保︵シェンバオ︶・ホルチン郡王センゲリンチン︵senggerincin、僧格林沁︶と協力して、防衛に成功した。咸豊6年︵1856年︶に東閣大学士・蒙古正藍旗都統となった。 咸豊8年︵1858年︶、アロー戦争でイギリス・フランス連合軍が天津に迫ると、和議に赴いて天津条約に調印した。しかし朝廷内で主戦論が増大すると戦争は再開され、咸豊10年︵1860年︶にイギリス・フランス連合軍が北京を占領、咸豊帝が熱河に逃れると、文祥・恭親王奕訢と共に事後処理にあたり、北京条約を調印した。 咸豊11年︵1861年︶、総理各国事務衙門が設置されるとその大臣となり、外交・通商事務にあたった。同年の咸豊帝死後の辛酉政変では恭親王・東太后・西太后のグループを支持したため、同治帝が即位すると軍機大臣に任命され、洋務運動を推進した。死後、文端の諡号を贈られた。出典[編集]
- 『清史稿』巻388・列伝175
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