横山作次郎
横山 作次郎︵よこやま さくじろう、1864年︵元治元年︶- 1912年︵大正元年︶9月23日︶は、江戸出身の講道館創成期の柔道家。身長173 cm︵5尺6寸︶、体重86 kg︵23貫︶。段位は八段︵没後追贈︶で、通称鬼横山。富田常次郎、西郷四郎、山下義韶と共に講道館四天王と称された。また、三船久蔵や前田光世の師匠としても知られる。得意技は回込み払腰[1]、俵返、横捨身で、また、自らが編み出した天狗投という技の使い手でもある。技については文献が無く、正体不明となっていて、天神真楊流の天狗勝が正体とも言われている[2]。
年譜[編集]
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●1864年︵元治元年︶、江戸の鷺宮で生まれる。
●井上敬太郎︵道場は湯島天神下︶に天神真楊流を学び、他に起倒流を修行していた。兄弟子に三上富治︵後、山形県警の師範となる。京都武徳殿で磯貝一、永岡秀一に勝ったこともある。また大東流合気柔術の武田惣角の弟子となった。︶がいる。
●1886年︵明治19年︶、23歳、4月に嘉納治五郎の講道館に入門。5月初段、9月二段。10月向ヶ丘弥生社警視庁武術大会で、1883年︵明治16年︶に初代警視庁柔術世話掛4人のうちの1人であった良移心当流柔術の中村半助︵弘化2年11月16日︵1845年︵弘化2年︶ - 1897年︵明治30年︶で当時41歳︶と55分試合し、三島通庸警視総監の裁定により引き分けとなる。
●1887年︵明治20年︶、1月三段、同年警視庁柔術世話掛となる。
●1888年︵明治21年︶、3月四段。
●このころ、警視庁柔術世話掛となった竹内流柔術の金谷仙十郎︵養子前名は片岡仙十郎 1890年︵明治23年︶上京︶と数十分試合をするが引き分けとなったことが有名となる[3]。
●1893年︵明治26年︶、1月五段。
●1896年︵明治29年︶、東京高等師範学校で柔道を教授。成績により級を決めた。
●1898年︵明治31年︶、1月六段。
●1904年︵明治37年︶、10月七段。
●1908年︵明治41年︶、﹃柔道教範﹄出版。
●1912年︵大正元年︶9月23日没。享年49歳。墓は東京都北区田端の大龍寺わきの墓地にある。