出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
永忠︵えいちゅう/ようちゅう、天平15年︵743年︶ - 弘仁7年4月5日︵816年5月5日︶︶は、平安時代初期の日本の僧侶。俗姓は秋篠氏。
京都の人。幼くして出家して奈良で経律を学ぶ。宝亀年間︵770 - 780年︶初めに入唐し、長安の西明寺などで学ぶ。同じころ留学していた最澄の世話をし、延暦24年︵805年︶に最澄とともに帰朝する。大同元年︵806年︶正月には度者2人を賜り、同年4月に律師、弘仁元年︵810年︶に少僧都、弘仁6年︵815年︶には大僧都に任ぜられる。また﹃元亨釈書﹄によれば、帰朝後、勅命により近江国滋賀韓崎にあった梵釈寺をつかさどった。嵯峨天皇が梵釈寺に御幸した際︵弘仁6年︶、永忠は自らの手で茶を煎じ奉っている。これが日本の記録に現れる最初の﹁茶事﹂である。その翌年に唐から持ってきていた﹁律呂旃宮の図﹂2巻、﹁日月の図﹂2巻、律管、塤︵つちぶえ︶を朝廷に献上し74歳で遷化した。著作に﹃五佛頂法訣﹄がある。
参考文献[編集]
| 出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2024年2月) |