江戸ヶ崎源弥
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江戸ヶ崎源弥(勝川春英画) | ||||
基礎情報 | ||||
四股名 | 江戸ヶ崎 源弥 | |||
本名 | 平野 源弥 | |||
生年月日 | 1781年 | |||
没年月日 | 1812年8月16日(旧暦7月10日) | |||
出身 |
相模国大住郡四之宮村 (現:神奈川県平塚市四之宮) | |||
所属部屋 | 桐山部屋 | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 関脇 | |||
幕内戦歴 | 124勝37敗11分10預10無27休(24場所) | |||
データ | ||||
初土俵 | 1795年3月場所(序ノ口) | |||
入幕 | 1798年10月場所 | |||
引退 | 1812年4月場所 | |||
備考 | ||||
2013年7月12日現在 |
江戸ヶ崎 源弥︵えどがさき げんや、1781年︵天明元年︶ - 1812年︵文化9年︶8月16日︵旧暦7月10日︶︶は、相模国大住郡四之宮村︵現‥神奈川県平塚市四之宮︶出身で桐山部屋に所属した大相撲力士。本名は平野 源弥︵ひらの げんや︶。最高位は関脇。
来歴[編集]
1781年︵天明元年︶に相模国大住郡四之宮村︵現‥神奈川県平塚市四之宮︶の旧・平野家に生まれる。1794年︵寛政6年︶に桐山部屋へ入門、1795年︵寛政7年︶3月場所で初土俵を踏んだ。四股名は出身地の郡名に因んで﹁大隅﹂とした。 1797年︵寛政9年︶3月場所から三段目昇進が決定した際に、四股名を﹁荒馬﹂に変更した。その後も順調に出世していき、1798年︵寛政10年︶には久留米藩・有馬候の抱え力士となった。同年10月場所に東前頭5枚目まで番付を上げ、新入幕を果たした。1804年︵文化元年︶3月場所には関脇に昇進、1810年︵文化7年︶2月場所からは﹁江戸ヶ崎﹂を襲名し、江戸・本所の回向院境内で行われた同年10月場所︵10日間興行︶では東前頭筆頭に位置し、5日目に当時無敵を誇った雷電爲右エ門に勝利する殊勲の星を挙げた。 しかし、雷電からの殊勲の星が最後の華となり、1812年︵文化9年︶7月10日に京へ上る途中、東海道・藤川宿竹屋で現役のまま死去、31歳没。江戸ヶ崎の死因については、﹁急病﹂﹁岡崎城下で武士との諍いの末に無礼打ちにされた﹂などの説があるが、﹁同地の寺社で発生した火災の消火活動中に事故死﹂という説が有力である[1]。江戸ヶ崎の墓は愛知県岡崎市の称名寺にあり、その後分骨されて故郷・神奈川県平塚市四之宮の高林寺内の平野家の墓所に埋葬された[2]。戒名は﹁侠譽勇哲居士﹂[3]。主な成績[編集]
●通算幕内成績‥124勝37敗11分10預10無27休 ●幕内在位‥24場所 雷電爲右エ門とは通算で14回対戦し、最後の14戦目でようやく1勝を挙げた︵通算は1勝11敗2預︶。雷電爲右エ門が生涯で喫した黒星は僅か10︵上覧相撲を含めると11︶で、雷電爲右エ門に一度でも勝利したことのある力士は大相撲の歴史で10名しか存在しない。江戸ヶ崎はこの内の一人に数えられたことで、大相撲史に名を残したが、最終的に雷電爲右エ門から勝利するまでの対戦回数14は、勝利した10名の力士では最多である。脚注[編集]
- ^ しかし、四之宮の歴史再発見事業活動委員会の広報誌は、急病説を採用している。
- ^ 境内に墓碑および1847年建立の供養碑が寺の入口に現存している。また、同年9月は江戸ヶ崎没後35年として、四之宮村で相撲の追善興行が行われた。
- ^ 四之宮の歴史再発見活動事業委員会「広報#8」ver.2 2008年3月15日、改訂2011年8月19日 http://pcr.lar.jp/rengou/rk08_edogasaki.pdf