汪時璟
表示
汪時璟 | |
---|---|
『最新支那要人伝』(1941年) | |
プロフィール | |
出生: | 1887年(清光緒13年) |
死去: |
1952年8月12日[1] 中華人民共和国上海市[2] |
出身地: | 清安徽省寧国府旌徳県 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 汪時璟 |
簡体字: | 汪时璟 |
拼音: | Wāng Shíjǐng |
ラテン字: | Wang Shih-ching |
和名表記: | おう じけい |
発音転記: | ワン シージン |
汪 時璟︵おう じけい︶は、中華民国の政治家。中華民国臨時政府、南京国民政府︵汪兆銘政権︶において、財政関連の要職についた。字は翊唐。
事績[編集]
日本に留学し、陸軍経理学校に入学した。卒業後は北京政府財政総長の王克敏、張弧の下で秘書をつとめ、被服廠廠長も兼任した。1927年︵民国16年︶7月、武漢市政委員会委員兼中国銀行漢口分行副経理となる。さらに、中国銀行瀋陽分行経理にも就任した[3][4] 王克敏らが中華民国臨時政府を樹立すると、汪時璟もこれに参加した。1938年︵民国27年︶3月に中国聯合準備銀行総裁に就任、同月日華経済協議会委員となる。同年9月臨時政府の行政改革を行うと、10月からは財政総長を兼任。1940年︵民国29年︶3月、汪兆銘︵汪精衛︶の南京国民政府が成立すると、汪時璟は華北政務委員会常務委員兼財務総署督弁となった[4]。以後、華北河渠委員会委員、全国経済委員会常務委員、華北政務委員会経済総署督弁を歴任している。1944年︵民国33年︶9月、汪時璟は華北政務委員会の代表として日本を訪問し、入院中の汪兆銘を見舞った。また、日本銀行総裁の渋沢敬三との間で3億円の借款協定に調印している[3]。 日本敗北後の1945年︵民国34年︶12月5日、汪時璟は国民政府に北平で漢奸として逮捕され[5]、南京で収監された。翌1946年︵民国35年︶10月15日、首都高等法院で無期懲役を言い渡される。1949年︵民国37年︶1月、上海市の監獄へ移送され、中華人民共和国成立後も引き続き同地で収監されている。1952年8月12日、そのまま獄中で病没した。享年66[3][6][7]。出典[編集]
(一)^ ﹃上海監獄志﹄による。余ほか︵2006︶、1615頁も1952年8月死去としている。徐主編︵2007︶、722頁は1953年死去としている。
(二)^ ﹃上海監獄志﹄と余ほか︵2006︶、1479頁による。しかし余ほか︵2007︶の1615頁では﹁南京市﹂となっている。徐主編︵2007︶、722頁も南京市としている。
(三)^ abc。徐主編︵2007︶、722頁。
(四)^ ab東亜問題調査会編︵1941︶、20頁。
(五)^ 余ほか︵2006︶、1479頁、1614頁。徐主編︵2007︶、722頁は﹁1946年1月逮捕﹂としている。
(六)^ 余ほか︵2006︶、1479頁。
(七)^ ﹃上海監獄志﹄。
参考文献[編集]
●徐友春主編﹃民国人物大辞典 増訂版﹄河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。 ●余子道ほか﹃汪偽政権全史 下巻﹄上海人民出版社、2006年。ISBN 7-208-06486-5。 ●﹃上海監獄志﹄大事記︵上海地方志弁公室ホームページ︶ ●劉寿林ほか編﹃民国職官年表﹄中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。 ●東亜問題調査会編﹃最新支那要人伝﹄朝日新聞社、1941年。 中華民国臨時政府
| |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
南京国民政府(汪兆銘政権)
|