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河合宗元

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凡例

河合宗元
時代 江戸時代後期
生誕 文化13年2月5日1816年3月3日
死没 元治元年 12月26日1865年1月23日
別名 宗邦(前名)、勸次郎(前称) → 惣兵衛(通称)、松塢(
戒名 勇生院殿唯念有聲宗元大居士
墓所 悟真山善導寺
官位従四位
主君 雅楽頭酒井家
氏族 河合氏
父母 河合宗信、出渕義(姫路藩士出渕成庸四女)、
養母:荻野氏(森定次郎家臣荻野恵兵衛妹)、内藤せい(姫路藩士内藤正識二女)
兄弟 女、男、河合宗元、女、女、男
出渕氏(姫路藩士出渕重行女)、折井てう(姫路藩士折井影長女)
男、女(姫路藩士江坂行厚妻)、さき、女、女、
養子:宗貞宗孝
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人物・逸話[編集]

  • 養嗣子宗孝が建立した墓石には、容貌は魁梧で、性格は激烈、終始尊攘の大義を以て自任していたと刻まれている。藩校の教員を務めた様に学問に優れる傍ら、武術にも秀でていたらしく、宗元在世当時に使用人を勤めていた人物の家には、襖を締め切った八畳間の中で八尺柄の槍を自由自在に使いこなしたとする話が伝わっていた。
  • 刀剣の鑑定を好み、良い品を売る者が有れば千嚢を傾けてでも購入した。物頭在職中には一日、配下の士を集めて佩刀を検め、鈍刀を帯びた者数名にその刀では功を挙げるに足らないと諭し、それぞれに蔵していた刀を贈ったという。
  • 婿養子の宗貞が同志と共に城下の商人児嶋政光を暗殺し、興奮して帰宅した際には事情を聞き、政光を斬った事よりも武士が一人を斬っただけで狼狽した事を叱責したとされる。
  • 文久3年8月17日に発生した鳥取藩士同士の暗殺事件の際には、知恩院内に於いて自殺しようとしていた河田景与らを同院に駈け付けて説得したとされる。また、自身の収獄までの謹慎中、景与(一説には長州藩士佐々木男也)より幾度も書状で鳥取藩に逃れる事を奨められたが、自分が脱藩すれば、老母に危害が加わる事かも知れず、獄に在る同志を死地に置いて自分だけ助かろうとすることは出来ないとして断ったという。
  • 自殺の際には普段の如く談笑して茶を喫し、筆を乞い辞世を認めて死に就いた。一説には刀で自ら首の少し後ろ側を突き刺して、両手で刃を前へ押し、その殆どを切り落としたとする。

脚注[編集]

  1. ^ 姫路公園
  2. ^ もっとも橋の欄干には誤って寸翁家や仁寿山黌に由来する熊鷹紋が附されているため、一見すると宗元とは関係が無い様に見える。

参考文献[編集]

  • 『舊姫路藩勤王志士五十年祭記事』(舊姫路藩勤王志士五十年祭事務所、大正2年12月)
  • 砂川雄健編『姫路藩勤王志士列傳』(播磨史談會、大正3年11月)
  • 穂積勝次郎著『姫路文化研究會叢書第四輯 姫路藩勤王志士の歌』(姫路文化研究會、昭和17年3月)
  • ひめじ明治のかたりべ集編集委員会編『ひめじ・明治のかたりべ集』上巻(姫路市老人のための明るいまち推進協議会、昭和54年3月)「河合惣兵衛の話」
  • 津山邦寧著『景福寺とその周辺の史跡‐姫路藩と景福寺の歴史を考える‐』(景福寺山史跡研究会、平成27年7月)

関連項目[編集]