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●1900年︵明治33年︶1月4日 - 生まれる
●1913年︵大正2年︶- 東京府立工芸学校︵現・東京都立工芸高校︶に入学
●1917年︵大正6年︶- 府立工芸を卒業後、戸田海笛に木彫を習う
●1920年︵大正9年︶- 岡本唐遣と共に戸田海笛の家に居候しながら東京美術学校︵現・東京芸術大学︶に通う[2]
●1922年︵大正11年︶- 院展に石膏像が入選
●1923年︵大正12年︶ - 第10回二科展に﹁肖像﹂が入選
●1925年︵大正14年︶- 築地小劇場で行われた﹁劇場の三科﹂に出演
●1927年︵昭和2年︶- 佐藤春夫、室生犀星、サトウハチローらが後援した﹁ラリルレロ玩具製作所﹂に参加し出展[3]、東京美術学校除籍
●1929年︵昭和4年︶- ﹁国際光学協会﹂を堀野正雄らと結成、妻ふみ子との間に長男の翼が生まれる
●1936年︵昭和11年︶- 映画﹁新しき土地﹂の特殊美術を担当し、ジオラマを作る
●1950年︵昭和25年︶ - 西宮球場で開かれたアメリカ博のためにリンカーン像を制作
●1955年︵昭和30年︶- 二科会を脱会、一陽会の会員となる
●1970年︵昭和45年︶ - ローマ、ギリシャを旅行
●1972年︵昭和47年︶ - ﹁大阪の女﹂﹁青年像﹂を制作、大東市民会館に設置される
●1973年︵昭和48年︶- 大阪芸術賞を受賞
●1980年︵昭和55年︶- 大阪南港ポートタウンに﹁カーニバル﹂設置される
●1984年︵昭和59年︶4月16日 - 肝硬変のため亡くなる
(一)^ “浅野孟府 :: 東文研アーカイブデータベース”. www.tobunken.go.jp. 2021年1月15日閲覧。
(二)^ ﹃彫刻家 浅野孟府の時代 1900〜1984﹄批評社、2019年10月20日、49頁。
(三)^ ﹃サトウ・ハチロー随筆集 : 昨日も今日も明日も﹄草原書房、1947年、52頁。