室生犀星
59歳の室生犀星(1948年) | |
誕生 |
室生 照道(むろう てるみち) 1889年8月1日 石川県金沢市 |
死没 |
1962年3月26日(72歳没) 東京都港区虎ノ門 |
墓地 | 野田山墓地(石川県金沢市) |
職業 | 詩人・小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 長町高等小学校中退 |
活動期間 | 1913年 - 1962年 |
ジャンル | 詩、小説、俳句、随筆 |
主題 | 近代抒情詩 |
文学活動 | 理想主義 |
代表作 |
『愛の詩集』(1918年) 『抒情小曲集』(1918年) 『性に目覚める頃』(1933年) 『あにいもうと』(1934年) 『杏っ子』(1957年) 『かげろうの日記遺文』(1958年 - 1959年) 『蜜のあはれ』(1959年) |
主な受賞歴 |
文芸懇話会賞(1935年) 菊池寛賞(1941年) 読売文学賞(1957年) 毎日出版文化賞(1959年) 野間文芸賞(1959年) |
配偶者 | 室生とみ子(1895年 - 1959年) |
子供 | 室生朝子 |
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室生犀星︵むろう さいせい、1889年︿明治22年﹀8月1日 - 1962年︿昭和37年﹀3月26日︶は、日本の詩人・小説家。石川県金沢市出身。本名は室生 照道︵むろう てるみち︶。別号に﹁魚眠洞﹂、﹁魚生﹂、﹁殘花﹂、﹁照文﹂。別筆名は﹁秋本 健之﹂。日本芸術院会員。
姓の平仮名表記は、﹁むろう﹂が一般的であるが、犀星自身が﹁むろう﹂﹁むろお﹂の両方の署名を用いていたため、現在も表記が統一されていない。室生犀星記念館は﹁﹁むろお﹂を正式とするが、﹁むろお﹂への変更を強制するものではない﹂としている。[1][注釈 1]
生後すぐ養子に出され、室生姓を名乗った。養母は養育料で享楽しようとするような女で、犀星は生母の消息をついに知ることなく、貰い子たちと共同生活を送る。
養母により高等小学校を中途で退学させられ、金沢地方裁判所に給仕として勤めさせられるが、この頃より文学に関心を抱いて、やがて上京する。しかし生活は苦しく、故郷に戻っても、出生・学歴などの理由で失恋し、東京と金沢との間を往きつ戻りつする。この間にうたわれたのが絶唱﹁小景異情﹂である。
1915年、萩原朔太郎・山村暮鳥らと詩誌﹁感情﹂を創刊。1918年に刊行した﹃愛の詩集﹄と﹃抒情小曲集﹄は詩壇に新風を吹き込んだ。1919年、小説﹁幼年時代﹂﹁性に眼覚める頃﹂を発表し、小説に活動の場を移した。長い沈黙のあと、1934年に﹁あにいもうと﹂を発表。第2次世界大戦後も沈黙があったが、1956年の﹃杏っ子﹄で復活をとげ、その後は小説家として名を上げた。
経歴[編集]
1889年︵明治22年︶、金沢市裏千日町に生まれる[2]。加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種と、その女中であるハルの間に私生児として生まれた[注釈 2]。生後まもなく、生家近くの雨宝院︵真言宗︶住職だった室生真乗の内縁の妻、赤井ハツに引き取られ、ハツの私生児として照道の名で戸籍に登録された。住職の室生家に養子として入ったのは7歳のときであり、この時から室生照道を名乗ることになった。私生児として生まれ、実の両親の顔を見ることもなく、生まれてすぐに養子に出された生い立ちは、犀星の文学に深い影響を与えた。﹁お前はオカンボ︵妾を意味する金沢の方言︶の子だ﹂と蔑まれた犀星は、生みの母親についてのダブルバインド︵二重束縛︶を背負っていた[要出典]。﹃犀星発句集﹄︵1943年︶に収められた ﹁夏の日の匹婦[3]の腹に生まれけり﹂ との句は、犀星自身50歳を過ぎても、このダブルバインドを引きずっていたことを提示している[要出典]。 1895年︵明治28年︶9月金沢市立野町尋常小学校入学。 1896年︵明治29年︶2月室生真乗の養嗣子となる。 1898年︵明治31年︶3月実父小畠吉種死去。このあと実母ハルは行方不明となる。 1899年︵明治32年︶3月野町尋常小学校を卒業。 1900年︵明治33年︶4月金沢高等小学校に入学。 1902年︵明治35年︶5月長町高等小学校を3年で中退し[4][注釈 3]、義母の命令により[5]、義兄真道の勤務する金沢地方裁判所に給仕として就職[注釈 4]。海月寺の庫裏を下宿先としていた[6]。 1903年︵明治36年︶頃より裁判所の上司に河越風骨[注釈 5]、赤倉錦風といった俳人があり手ほどきを受け[注釈 6]、文学書に親しみ始める。俳句会への出席および新聞への投句を始め[注釈 7]、1904年︵明治37年︶10月8日付け﹃北國新聞﹄に初掲載。第四高等学校教授藤井乙男︵紫影︶が俳句欄の選者であった[注釈 8]。この時の号は照文︵てりふみ︶[7] 。その後詩、短歌などにも手を染める。 1905年︵明治38年︶勤務先で回覧雑誌をつくる。 1906年︵明治39年︶﹃文章世界﹄3月創刊号に小品の文章が初入選する。使用した号は、室生殘花。また、北國新聞その他に俳句が掲載され始める。なお、犀星を名乗ったのはこの年からである。犀星という筆名は、当時金沢で活動をしていた漢詩人の国府犀東に対抗したもので、犀川の西に生まれ育ったことからと言う。犀星が育った雨宝院は犀川左岸にあり、犀星はこの川の風情と、上流に見える山々の景色とをことの外愛した。 1907年︵明治40年︶﹃新聲﹄7月号に児玉花外の選により詩﹁さくら石斑魚に添へて﹂が掲載される。この頃から詩作も始める。 1908年︵明治41年︶5月同郷の友人である表棹影、尾山篤二郎、田辺孝次らと﹁北辰詩社﹂結成。初の小説﹁宗左衛門﹂が﹃新聲﹄8月号に掲載される。第八高等学校に転出した藤井乙男の後任大谷繞石と識る[2]。 1909年︵明治42年︶1月、金石登記所に転任。2月、尼寺に下宿する。北原白秋から強い影響を受け、﹁かもめ﹂﹁海浜独唱﹂を作詩。4月表棹影病没。この頃徴兵検査を受けるが、丙種合格。9月裁判所退職。10月福井県三国町の﹃みくに新聞﹄に就職するが、社長と衝突[注釈 9]。12月に退社し、金沢に戻る。 1910年︵明治43年︶1月京都旅行。藤井紫影の紹介で上田敏を訪問する。福井を経て金沢に戻り、2月金沢の﹃石川新聞﹄に入社するが、2ケ月ほどで退社。5月裁判所時代の上司であった赤倉錦風を頼り上京し、下谷根岸の赤倉家に止宿する。さらに、北原白秋、児玉花外を訪問。赤倉の薦めで、東京地方裁判所の地下室での裁判関係の筆耕に通う[8]。7月本郷根津片町で下宿開始。このあと谷中三崎町、千駄木林町などを移り住む。 1911年︵明治44年︶7月生活上の困苦と夏の暑さのため帰郷。10月再び上京し、駒込千駄木町に下宿。その後は、幾度も帰郷・上京をくりかえす。 1912年︵明治45年︶1月北原白秋を訪問する[8]。7月帰郷。北原白秋や﹃スバル﹄の発行編集人江南文三あて詩を送付。﹁青き魚を釣る人﹂ほかが﹃スバル﹄10月号に掲載される[注釈 10][9]。1912年︵大正元年︶12月、尾山篤二郎が金沢で創刊した雑誌﹃樹蔭﹄に参加する。 1913年︵大正2年︶2月、半年ぶりに上京し[8]、根津神社裏に下宿。藤澤淸造、安野助太郎、廣川松五郎らと交流し、佐藤春夫、山村暮鳥を知る。一方で、北原白秋に認められ白秋主宰の詩集﹃朱欒︵ざんぼあ︶﹄に寄稿し、1月の創刊号から第5号廃刊まで毎号掲載される。ほかに﹃詩歌﹄、﹃創作﹄、﹃秀才文壇﹄、﹃女子文壇﹄にも詩を発表する。なお、同年春に﹃朱欒﹄掲載の抒情詩に感激した未知の萩原朔太郎から手紙を受け取り、終生の親交をもつ。夏から秋にかけて郷里に滞在[8]。11月上京[8]。12月﹃女子文壇﹄の編集を引き受けるも1ケ月でやめる。 1914年︵大正3年︶2月前橋に萩原朔太郎を訪ね、利根河畔の旅館一明館に3月8日まで滞在する[8]。このとき聖書を読む。前橋より上京[8]。4月尾山篤二郎と﹁北辰詩社﹂を復活させ、詩と短歌を有料で添削指導する。この頃、恩地孝四郎と識る。また高村光太郎を訪問する[8]。5月頃、尾山と共著詩歌集﹃靑き甕﹄を企画する[8]。6月萩原と山村暮鳥とともに﹁人魚詩社﹂を結成する。8月帰郷[8]。9月創造社刊行の﹃創造﹄に掲載した﹁急行列車﹂が原因となり該当誌が発売禁止となる[注釈 11]。同月雑誌﹃地上巡禮﹄が創刊され、発行元の巡禮詩社の社友となる。同月雑誌﹃異端﹄が創刊され、同人となる。11月自宅である金沢市千日町に﹁詩の會﹂を設立し、有料で詩の添削を始める。この頃、﹃詩歌﹄、﹃創作﹄、﹃風景﹄、﹃アララギ﹄、﹃異端﹄、﹃地上巡禮﹄などに詩を発表する。 1915年︵大正4年︶1月金沢で﹃遍路﹄が創刊され、詩の選者となる。3月山村、萩原と﹃卓上噴水﹄を創刊して、編集を担当するが、第3号で廃刊となる。4月多田不二と識る。5月8日萩原を金沢に迎え、17日まで滞在。多田、小畠貞一らと歓待する[8]。5月上京し、本郷千駄木町に下宿する。萩原の紹介で、竹村俊郎を知る。また、北原らと交遊する[8]。この頃、﹃詩歌﹄、﹃地上巡禮﹄、﹃遍路﹄、﹃處女國﹄、﹃ARS﹄、﹃秀才文壇﹄、﹃創造﹄、﹃卓上噴水﹄などに詩および感想文を発表する。10月、前橋に、萩原を訪問する。 1916年︵大正5年︶には、トルストイ、ドストエフスキーの作品を読む。4月山村の編集により雑誌﹃LE PRISME﹄創刊。室生が発行名義人となる。6月萩原とともに﹁感情詩社﹂を設立し、同人誌﹃感情﹄を創刊。再び共同主宰し、室生も編集運営に当たる[9][注釈 12]。7月田端の沢田方へ﹁感情詩社﹂とともに移転し、﹃感情﹄第2号、第3号を﹁抒情小曲集﹂として特集、金石時代以来の詩60篇を掲載。9月﹁抒情小曲集﹂に感激した谷崎潤一郎が来訪。また、佐藤惣之助、百田宗治ら多数の詩人と知り合う。11月﹃文章世界﹄の﹁詩壇九人集﹂に参加する[注釈 13]。 1917年︵大正6年︶1月メエゾン鴻の巣での各グループ詩人懇談会に出席[8]。2月萩原の詩集﹃月に吠える﹄が出版されるが、発売禁止問題が起り、室生が警視庁に出頭する[注釈 14]。雑誌﹃感情﹄で﹁室生犀星特集號﹂を特集。3月南葛飾の北原白秋を訪問[8]。5月群馬県梨木鉱泉へ行く。帰路、萩原と伊香保温泉に谷崎潤一郎を訪問[8]。7月下旬熱病罹患し数日間病臥[8]。8月養父重病のため帰郷。看護してのち帰京。この頃、近所に越してきた北原白秋と頻繁に往来[8]。9月23日養父真乗死去。家督を継ぎ寺院および家財を整理する。このあいだに、文通交際中であった浅川とみ子︵実名とめ︶と婚約[注釈 15]。10月初旬帰京[8]。11月﹁詩話會﹂が設立され、会員となる[8]。 1918年︵大正7年︶1月1日第一詩集﹃愛の詩集﹄を感情詩社より自費出版[注釈 16][注釈 17]。日夏耿之介詩集の﹁転身の頌の會﹂に出席し、芥川龍之介、福士幸次郎と識る。月末帰郷。2月13日生家小畠家にて浅川とみ子と結婚式を挙げ、まず新妻を置いて上京、月末とみ子も上京し、田端の沢田方に新居を持つ。散文、評論の執筆を積極的に始める。4月﹃新らしい詩とその作り方﹄を刊行。9月﹃抒情小曲集﹄を感情詩社から自費出版[注釈 18]。亡父一周忌法要に帰郷。10月詩話會委員となる[8]。 1919年︵大正8年︶には中央公論に﹃幼年時代﹄、﹃性に目覚める頃﹄等を掲載し、注文が来る作家になっていた[注釈 19]。この年、2月﹁詩話會﹂発行の年刊詩集﹃日本詩集﹄編集委員に就任。5月﹃第二愛の詩集﹄を刊行[注釈 20]。6月10日に﹃愛の詩集﹄出版記念会が本郷燕樂軒で開催されて、北原、芥川、加能作次郎ら32名が出席した。10月田端571番地に転居。11月、雑誌﹃感情﹄が32号で終刊となる。 1920年︵大正9年︶﹃中央公論﹄、﹃新潮﹄、﹃雄辯﹄、﹃文章世界﹄、﹃改造﹄、﹃文章倶楽部﹄、﹃太陽﹄、﹃解放﹄などに30篇以上の小説を執筆。1月小説集﹃性に眼覺める頃﹄刊行[注釈 21]。これは最初の小説集となった。2月﹃感情同人詩集﹄を編集発行。4月、﹃中央公論﹄に﹁結婚者の手記﹂を発表し、3月に単行本として刊行。同月、初の新聞小説である﹁海の僧院﹂を39回﹃報知新聞﹄に連載。また、﹃雄辯﹄に発表した﹁蒼白き巣窟﹂が部分削除処分となる。4月﹁美しき氷河﹂、6月﹁古き毒草園﹂を﹃中央公論﹄に発表。5月約半月の間帰郷。この頃から魚眠洞、魚生と号する。8月詩集﹃寂しき都會﹄刊行。9月﹁香爐を盗む﹂を﹃中央公論﹄に発表。11月短篇集﹃蒼白き巣窟﹄刊行[注釈 22]。 1921年︵大正10年︶40篇以上の小説を執筆。このうち7回は﹃中央公論﹄への掲載。1月号﹁おれん﹂、3月号﹁萬華鏡﹂、4月号﹁影絵のごとく﹂、6月号﹁芋掘藤五郎﹂、都市と田園号﹁植物物語﹂、四百号記念号(秋季大附録号)﹁孔雀と痴人﹂、12月号﹁お小姓兒太郞ほか二篇﹂。2月短篇集﹃古き毒草園﹄刊行。3月短篇集﹃香爐を盗む﹄刊行。3月から4月にかけて﹁蝙蝠﹂33回を﹃大阪毎日新聞﹄、﹃東京日日新聞﹄に連載。5月長男豹太郎誕生。6月短篇集﹃鯉﹄、短篇集﹃美しき氷河﹄刊行[注釈 23]。同月、伊香保温泉に遊び、帰途前橋に萩原を訪問。7月﹁金色の蠅﹂を﹃報知新聞﹄に連載。8月上旬萩原と赤倉温泉に遊ぶ[8]。同月﹁詩話會﹂委員となる。9月短篇集﹃蝙蝠﹄刊行。 1922年︵大正11年︶小説も詩も多作。2月詩集﹃星より來れる者﹄刊行。3月﹃室生犀星詩選﹄刊行。同月千家元麿らと詩誌﹃嵐﹄を創刊。6月詩集﹃田舎の花﹄刊行。同月24日長男死去。同月中篇小説﹃走馬燈﹄刊行。7月夫人と湯ヶ島温泉に萩原を訪ね、同道して北原白秋を訪問[8]。11月短篇集﹃幼年時代﹄刊行。12月亡児追悼の作品集﹃忘春詩集﹄刊行。 1923年︵大正12年︶1月短篇集﹃萬花鏡﹄刊行。4月詩集﹃青き魚を釣る人 抒情小曲﹄刊行。7月アルス社より﹃抒情小曲集﹄を再び刊行[注釈 24]。8月27日長女朝子誕生。9月1日関東大震災罹災。10月1日一家で金沢に転居し、池田町を経て上本多町川御亭に住む。12月川岸町に転居。この年、中野重治、堀辰雄を知る[8]。 1924年︵大正13年︶大阪の文化社が3月﹃肉の記録﹄を、大阪の萬有社が4月﹃肉を求むる者﹄をそれぞれ無断出版したことを知り、6月訴訟のため上京。この月萬有社より﹃彼等に﹄が刊行される。同月号﹃新潮﹄に﹁山河老ゆる﹂を発表。なお、このあいだ5月に芥川を金沢に迎える[8]。7月、堀辰雄を金沢に迎える[8]。9月詩文集﹃高麗の花﹄刊行。 1925年︵大正14年︶1月金沢より上京し、田端613番地に仮寓する。2月田端608番地に移り、家族を迎える。3月童話集﹃翡翠﹄刊行。4月田端523番地に転居。5月初旬、詩話會同人と湯ヶ島方面に遊ぶ[8]。6月初の随筆集﹃魚眠洞随筆﹄刊行。この年、堀、中野、窪川鶴次郎、西沢隆二、宮木喜久雄、太田辰雄らの若い詩人や栗田三蔵らが来訪。近所に移ってきた萩原と頻繁に往来[8]。 1926年︵大正15年︶4月下旬、詩話會同人と伊豆方面に遊ぶ。中野重治、堀辰雄、窪川鶴次郎らによる同人雑誌﹃驢馬﹄の創刊を後援する。6月小曲集﹃野いばら﹄刊行。9月次男朝巳誕生。10月詩話會解散に当り、声明書に署名。この年、秋本健之の筆名で﹃日本詩人﹄などに詩を発表[8]。德田秋聲を知る。 1927年︵昭和2年︶1月、この月より﹃驢馬﹄同人との﹁パイプの會﹂、德田秋聲を囲む﹁二日會﹂に出席し始める。5月萩原その他の人々と﹃昭和詩選﹄の編集に当たる。6月詩集﹃故郷圖繪集﹄、随筆集﹃庭を造る人﹄刊行[注釈 25]。12月﹁詩人協會﹂設立の発起人となる。この年芭蕉に関する散文を﹃文藝春秋﹄、﹃サンデー毎日﹄などに発表。この年俳句、短歌の発表多し。 1928年︵昭和3年︶1月﹃愛の詩集﹄第三版刊行。詩人協會創立総会に出席し、評議員となる。3月日本文芸家協會寄託による第2回文藝賞︵﹁渡辺賞﹂︶受賞。4月末養母赤井ハツ死去し、金沢に戻る。5月評論集﹃芭蕉襍記﹄刊行[注釈 26]。6月田端の家を引き払い軽井沢で避暑。さらに9月軽井沢より金沢に移る。池田町に仮寓し、山田屋小路に移る。同月、詩集﹃鶴﹄刊行[注釈 27]。11月上京し、大森谷中に移る。この年文芸時評、映画時評の発表多し。 1929年︵昭和4年︶2月随筆集﹃天馬の脚﹄刊行[注釈 28]。4月初の句集﹃魚眠洞發句集﹄を刊行[注釈 29]。5月帰郷。7月改造文庫で﹃新選室生犀星集﹄刊行。9月春陽堂から﹃芥川龍之介・室生犀星篇﹄︵明治大正文学全集第45巻︶刊行。11月第一書房から萩原朔太郎編による﹃室生犀星詩集﹄刊行。12月旧﹃驢馬﹄同人懇親会。同月、改造文庫﹃室生犀星詩集﹄刊行。なお、この年改造8月号﹁浮気な文明﹂、文藝春秋9、10月号﹁私の白い牙﹂などで近代的手法による表現を試みた。 1930年︵昭和5年︶5月生田春月自殺。追悼のための合同詩文集﹃海図﹄に寄稿。同月短篇集﹃生ひ立ちの記﹄刊行。6月詩集﹃鳥雀集﹄刊行。9月随筆集﹃庭と木﹄刊行。10月改造社から﹃久保田万太郎・長与善郎・室生犀星集﹄︵現代日本文学全集第44篇︶刊行。この年の前後に山崎泰雄、津村信夫、衣巻省三、乾直恵、伊藤新吉、立原道造らを知る[注釈 30]。 1931年︵昭和6年︶6月から8月にかけて﹃都新聞﹄に芥川をモデルとした﹁靑い猿﹂を連載[注釈 31]。7月軽井沢に別荘建築。 1932年︵昭和7年︶3月長篇﹃靑い猿﹄刊行。4月大森区馬込町東に新築転居。明治大学に講師として招かれるも、講義1回で中止となった。9月随筆集﹃犀星随筆﹄刊行。また詩集﹃鐵集﹄を刊行し、これを自ら﹁最後の詩集﹂と称した。 1933年︵昭和8年︶2月詩集﹃十九春詩集﹄刊行。8月﹁ハト﹂を﹃中央公論﹄に、﹁哀猿記﹂を﹃改造﹄に発表。11月随筆集﹃茱萸の酒﹄刊行[2]。12月京都放送局で講演放送する[8]。 かつて1920年からしばらく小説の第1次の多作期があり、さらに1930年代に入り第2次の多作期となり、 1934年︵昭和9年︶には、﹁あにいもうと﹂を中心にいわゆる﹁市井鬼もの﹂を書き始めた。1月﹁文藝懇話會﹂設立、会員となる。4月﹁鶴千代﹂︵のちに﹁山犬﹂と改題︶を﹃新潮﹄に発表。5月﹁洞庭記﹂を﹃中央公論﹄に発表、﹃鉛筆詩集﹄を含む随筆集﹃文藝林泉﹄刊行[注釈 32]。7月﹁醫王山﹂を﹃改造﹄に、﹁あにいもうと﹂を﹃文藝春秋﹄に発表。﹃文藝﹄8月号に﹁詩よ君とお別れする﹂を発表し詩との訣別を宣言したが、実際にはその後も多くの詩作を行っている。9月﹁神かをんなか﹂を﹃文藝﹄に﹁チンドン世界﹂を﹃中央公論﹄に発表。同月、別版﹃抒情小曲集﹄刊行。11月﹁神々のへど﹂︵のちに﹁續あにいもうと﹂と改題︶を﹃文藝春秋﹄に発表。 1935年︵昭和10年︶1月短篇集﹃神々のへど﹄刊行[注釈 33]。自伝小説﹁弄獅子﹂を﹃早稲田文學﹄に1月号より6回、﹁女の圖﹂を﹃改造﹄その他に5回にわたり分載、その他﹁悪い魂﹂を﹃文藝﹄1月号に、﹁会社の圖﹂を﹃新潮﹄2月号に、﹁笄蛭圖﹂を﹃文藝春秋﹄4月号に発表。2月随筆﹃慈眼山随筆﹄、短篇集﹃哀猿記﹄刊行[2]。3月創設された 旧・芥川賞選考委員となる[注釈 34]。6月評論﹁復讐の文學﹂を﹃改造﹄に発表し、反響を呼ぶ。同月短篇集﹃女ノ圖﹄刊行。同月﹃犀星發句集﹄刊行[注釈 35]。7月﹁あにいもうと﹂で第1回文藝懇話會賞を受賞。8月23日より﹁聖處女﹂を﹃朝日新聞﹄に12月25日完結で78回連載。9月﹃随筆文學 犀星随筆集﹄刊行。12月長篇﹃復讐﹄︵﹁人間街﹂を改題︶刊行。 1936年︵昭和11年︶1月﹁文藝懇話會﹂の機関誌﹃文藝懇話會﹄発刊。編集同人に参加。2月長篇﹃聖處女﹄[注釈 36]、詩集﹃十返花﹄刊行[注釈 37]。﹁龍宮の掏児﹂を﹃文藝春秋﹄3月号に発表。4月随筆集﹃薔薇の羹﹄刊行[注釈 38]。6月純粹小説﹃弄獅子﹄刊行。6月随筆集﹃印刷庭苑﹄刊行。8月﹁あにいもうと﹂が木村荘十二監督、ピー・シー・エル映画製作所製作、東宝配給で映画化され封切。9月非凡閣より﹃室生犀星全集﹄刊行開始[注釈 39]。10月﹁詩歌懇話會﹂設立。会員となる。 1937年︵昭和12年︶﹁女の一生﹂を紫式部學會出版の﹁趣味と教養、研究と教養﹂の雑誌﹃むらさき﹄2月号より19回連載する。4月中旬から5月初旬にかけて朝日新聞の依嘱により、満州旅行。大連、奉天、哈爾濱、朝鮮を経て帰国し、京都に滞在してから帰京。5月﹃室生犀星篇﹄︵現代長篇小説全集第4巻︶刊行。7月より、立原道造が室生邸の軽井沢避暑中の留守を預かり[10]、ここから勤務先に通い始める[11][12]。9月随筆集﹃駱駝行﹄刊行。10月10日より長篇﹁大陸の琴﹂を61回にわたり﹃東京朝日新聞﹄に連載。 1938年︵昭和13年︶1月新潮文庫より﹃あにいもうと﹄刊行。2月﹃大陸の琴﹄刊行。﹁波折﹂を﹃中央公論﹄2月号に発表。5月﹁詩人懇話會﹂設立され、会員となる。同月﹃室生犀星文學讀本・春夏の巻﹄刊行。7月春陽堂文庫で﹃犀星短篇集﹄刊行。9月長篇﹃女の一生﹄刊行。同月、自伝小説﹃作家の手記﹄刊行[注釈 40]。11月﹃室生犀星文學讀本・秋冬の巻﹄刊行。同月新潮文庫から﹃室生犀星詩選集﹄刊行。同月、とみ子夫人が脳溢血に倒れる。以後、半ば身体の自由を失う。 1939年︵昭和14年︶3月短篇集﹃波折﹄刊行。また、解散されていた﹁詩歌懇話會﹂の基金を引き継いで﹁詩人賞委員會﹂が設立され、同月その委員に就任。4月より第1回﹁詩人賞﹂授賞をめぐり雑誌﹃改造﹄誌上で北原白秋と論争になる。同月作品文庫で随筆集﹃あやめ文章﹄刊行。9月から翌年にかけて、讀賣俳壇の選者担当。10月短篇集﹃つくしこひしの歌﹄刊行。10月初旬萩原とともに講演のため水戸へ赴く[8]。10月から12月にかけて、﹁よきひと﹂14回を﹃週刊朝日﹄に連載。 1940年︵昭和15年︶3月長篇﹃よきひと﹄刊行。5月短篇集﹃乳房哀記﹄刊行。6月短篇集﹃美しからざれば哀しからんに﹄刊行。9月随筆集﹃此君﹄刊行。12月短篇集﹃戰死﹄刊行。﹃婦人之友﹄11月号に初の王朝小説﹁荻吹く歌﹂を発表。 1941年︵昭和16年︶﹃婦人之友﹄1月号に﹁遠つ江﹂を発表。3月短篇集﹃信濃の歌﹄刊行。4月﹃戰死﹄により第3回菊池寛賞受賞。同月長篇﹃戰へる女﹄刊行。﹃新女苑﹄5月号から﹁泥雀の歌﹂を10回連載。7月短篇集﹃蝶・故山﹄刊行。8月随筆集﹃花霙﹄刊行[注釈 41]。9月短篇集﹃王朝﹄刊行[注釈 42]。12月短篇集﹃甚吉記﹄刊行[注釈 43]。同月﹁哈爾浜詩選﹂を含む自選作品集﹃定本室生犀星詩集﹄刊行。12月胃痛を覚える[2]。 抒情小曲集の﹁ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて異土︵いど︶の乞食︵かたい︶となるとても/帰るところにあるまじや﹂の詩句が有名である。この句の通り、文壇に盛名を得た1941年が最後の帰郷となり、以後は代わりに犀川の写真を貼って故郷を偲んでいたという。 1942年︵昭和17年︶﹁えにしあらば﹂を﹃中央公論﹄3月号に発表。4月、胃潰瘍のため本所横網の同愛病院に20日あまり入院。4月童話集﹃鮎吉・船吉・春吉﹄刊行[注釈 44]。5月11日、萩原朔太郎死去。同月自伝小説﹃泥雀の歌﹄刊行[注釈 45]。6月より﹃萩原朔太郎全集﹄編集。6月短篇集﹃筑紫日記﹄刊行。同月短篇集﹃蟲寺抄﹄刊行[注釈 46]。7月短篇集﹃乙女抄﹄刊行[注釈 47]。夏の間、萩原朔太郎、佐藤惣之助の2人の亡友を追悼する長篇﹁我友﹂を執筆。12月短篇集﹃瞼のひと﹄刊行[注釈 48]。同月随筆集﹃殘雪﹄刊行[注釈 49]。 1943年︵昭和18年︶1月短篇集﹃木洩日﹄刊行。童話集﹃三吉物語﹄、﹃山の動物﹄刊行[注釈 50]。3月短篇集﹃萩の帖﹄刊行[注釈 51]。同月﹃佐藤惣之助全集﹄全2巻を編集。4月および7月に﹃芥川龍之介の人と作﹄上巻、下巻を刊行。6月随筆集﹃日本の庭﹄刊行[注釈 52]。7月詩集﹃美以久佐﹄[注釈 53]、長篇﹃我友﹄︵のちに﹃名木﹄と改題︶刊行[注釈 54]。8月詩集﹃いにしへ﹄刊行。同月﹃犀星発句集﹄刊行[注釈 55]。9月少年向け詩集﹃動物詩集﹄刊行。12月詩集﹃日本美論﹄︵のちに﹃夕映梅花﹄と改題︶刊行。同月短篇集﹃神國﹄刊行。 1944年︵昭和19年︶3月から4月にかけて﹃中部日日新聞﹄に﹁山吹﹂38回を連載。3月小説集﹃餘花﹄刊行[注釈 56]。一家で軽井沢に疎開し、1949年︵昭和24年︶まで住む。 1945年︵昭和20年︶7月次男朝巳が金沢第九師団に入隊。8月終戦。9月次男除隊帰宅。10月長篇﹃山吹﹄刊行。 戦後は小説家としてその地位を確立、多くの作品を生んだ。 1946年︵昭和21年︶1月﹃人間﹄創刊号に詩を発表。同月随筆集﹃信濃山中﹄刊行。2月﹃山ざと集﹄刊行。8月﹃童話三吉ものがたり 附動物詩集﹄刊行[注釈 57]。この年、さらに﹃潮流﹄、﹃別冊文藝春秋﹄、﹃東京新聞﹄、﹃光﹄、﹃婦人公論﹄、﹃高原﹄、﹃蝋人形﹄、﹃子供の広場﹄などに詩を発表。また﹃文藝春秋﹄、﹃新小説﹄、﹃新女苑﹄、﹃群像﹄、﹃新生﹄などに小説を発表。 1947年︵昭和22年︶1月短篇集﹃玉章﹄刊行。﹃新女苑﹄1月号より﹁みえ﹂を12回連載。2月詩集﹃旅びと﹄刊行。3月短篇集﹃山鳥集﹄刊行。10月短篇集﹃世界﹄刊行。同月詩集﹃逢ひぬれば﹄刊行。﹃群像﹄10月号に﹁祭服﹂を発表。 1948年︵昭和23年︶3月童話集﹃オランダとけいとが﹄刊行。4月長篇﹃みえ﹄刊行。同月短篇集﹃童女菩薩﹄刊行。5月アテネ文庫より自伝小説﹃童笛を吹けども﹄刊行。6月4日﹁唇もさびしく﹂︵のちに﹁宿なしまり子﹂と改題︶を﹃北海道新聞﹄、﹃西日本新聞﹄に70回連載。10月短篇集﹃氷った女﹄刊行。11月日本藝術院会員となる。同月童話集﹃五つの城﹄刊行。同月長女朝子結婚。 1949年︵昭和24年︶9月軽井沢での疎開生活を終えて帰京し、再度大森馬込に住む。6月自伝小説﹃室生犀星﹄刊行。8月随筆集﹃泥孔雀﹄刊行。また﹁消えたひとみ﹂を﹃群像﹄8月号に発表。 1950年︵昭和25年︶﹁奥医王﹂を﹃風雪﹄4月号に、﹁俗調﹃膝﹄悲曲﹂を﹃文學界﹄5月号に、﹁刀身﹂を﹃群像﹄7月号に発表。 1951年︵昭和26年︶﹁餓人伝﹂を﹃文學界﹄3月号に発表。8月﹃萩原朔太郎全集﹄刊行に際し、編集企画を担当する。﹁誰が屋根の下﹂を﹃改造﹄9月号に発表。9月新潮文庫﹃室生犀星詩集﹄刊行。 1952年︵昭和27年︶2月、水谷八重子らにより﹃あにいもうと﹄が大阪歌舞伎座で上演される。﹁黒髪の宿﹂を﹃中央公論﹄5月号に、﹁野に臥す者﹂を﹃小説公園﹄12月号に発表。 1953年︵昭和28年︶1月長女、夫と別居し室生家に戻る。﹁お天気博士﹂を﹃群像﹄1月号に、﹁貝殻川﹂を﹃文學界﹄4月号に、﹁生涯の垣根﹂を﹃新潮﹄8月号に発表。 1954年︵昭和29年︶1月川島胃腸病院に1ケ月以上入院。退院後、自宅にて静養。﹁鞄︵ボストン・バッグ︶﹂を﹃新潮﹄1月号に発表。入院生活に取材した﹁黄と灰色の問答﹂を﹃群像﹄4月号に発表。5月に﹃性に眼覚める頃﹄が﹃麥笛﹄と改題されて豊田四郎監督東宝配給にて映画化される。﹁蝶紋白﹂を﹃文藝﹄6月号に発表。同月、角川書店﹃昭和文学全集 佐藤春夫・室生犀星集﹄刊行。﹁妙齢失はず﹂を﹃婦人朝日﹄8月号より17回連載。12月夫と別居中であった長女、協議離婚のうえ室生家に復籍。 1955年︵昭和30年︶随筆﹁女ひと﹂を﹃新潮﹄1月号より6回連載。2月短篇集﹃黒髪の書﹄刊行。﹁ワシリイの死と二十人の少女達﹂を﹃文藝﹄7月号に発表。8月筑摩書房から﹃現代日本文学全集第27巻 菊池寛・室生犀星集﹄刊行。10月随筆集﹃女ひと﹄刊行。﹁めたん子傳﹂を﹃文學界﹄10月号に発表。﹁横着の苦痛﹂を﹃文藝﹄10月号に発表。 1956年︵昭和31年︶1月短篇集﹃少女野面﹄刊行。﹁舌を噛み切った女﹂を﹃新潮﹄1月号に発表。2月短篇集﹃舌を噛み切った女﹄刊行。3月長篇﹃妙齢失はず﹄刊行。同月随筆集﹃續女ひと﹄刊行。﹁三人の女﹂を﹃週刊新潮﹄5月1日号より15回連載。5月、﹃舌を噛み切った女﹄が菊五郎劇団により歌舞伎座で上演される。9月長篇﹃三人の女﹄刊行。10月随筆集﹃誰が屋根の下﹄刊行。﹁陶古の女人﹂を﹃群像﹄10月号に発表。﹁鴉﹂を﹃婦人朝日﹄11月号に発表。11月19日から﹁杏っ子﹂271回を﹃東京新聞﹄に連載[注釈 58]。12月短篇集﹃陶古の女人﹄刊行。 1957年︵昭和32年︶﹁夕映えの男﹂を﹃婦人公論﹄1月号に発表。﹁つゆくさ﹂を﹃文藝春秋﹄6月号に発表。6月短篇集﹃夕映えの男﹄刊行。7月詩集﹃哈爾浜詩集﹄刊行。﹁遠めがねの春﹂を﹃新潮﹄8月号に発表。10月長篇﹃杏っ子﹄を刊行。﹁名もなき女﹂を﹃小説新潮﹄11月号に発表[2]。 娘朝子をモデルとした半自叙伝的な長編﹃杏っ子﹄その他の業績により、 1958年︵昭和33年︶1月に昭和32年度第9回読売文学賞を受賞。﹁わが愛する詩人の伝記﹂を﹃婦人公論﹄1月号より12回連載。2月随筆集﹃刈藻﹄刊行。3月短篇集﹃つゆくさ﹄刊行。﹁黄色い船﹂を﹃中央公論﹄5月号に発表。5月﹃杏っ子﹄が成瀬巳喜男監督、東宝配給で映画化。﹁二十歳の燦爛﹂を﹃別冊小説新潮﹄7月号に発表。﹁かげろうの日記遺文﹂を﹃婦人之友﹄7月号より13回連載。9月﹃山吹﹄が菊五郎劇団により歌舞伎座で上演される。﹁歯の生涯﹂を﹃それいゆ﹄10月号に発表。11月から新潮社﹃室生犀星作品集﹄を全12巻で刊行開始[注釈 59]。12月﹃我が愛する詩人の伝記﹄︵なお、佐藤惣之助の遺族の抗議により該当項目削除︶刊行[2]。 1959年︵昭和34年︶﹁蜜のあはれ﹂を﹃新潮﹄1月号より4回連載。﹁生きるための橋﹂を﹃群像﹄1月号に発表。3月次男朝巳結婚。同月定本自筆本句集﹃遠野集﹄刊行。﹁借金の神秘﹂を﹃小説新潮﹄4月号に発表。5月短篇集﹃生きるための橋﹄刊行。同月随筆集﹃硝子の女﹄刊行。同月﹃平安遷都﹄︵河出書房現代人の日本史第4巻︶刊行。同月古稀にあたって日本文芸家協会より祝辞、記念品を贈られ、名誉会員となる。その詩業に対して現代詩人会より感謝状と記念品とを贈られる。﹁衢のながれ﹂を﹃中央公論﹄6月号に発表。﹁なやめる森﹂を﹃新潮﹄8月号に発表。8月詩集﹃昨日いらっしって下さい﹄刊行。﹁火の魚﹂を﹃群像﹄10月号に発表。10月長篇﹃蜜のあはれ﹄刊行。10月18日妻とみ子死去。前年1957年12月刊行の評論﹃わが愛する詩人の伝記﹄で11月に第13回毎日出版文化賞を受賞。同年11月に刊行された、古典を基にした長篇﹃かげろふの日記遺文﹄により、同年12月、第12回野間文芸賞を受賞した。なお、同賞祝賀会の席上で、この賞金を基にした室生犀星詩人賞の創設、﹁犀星文学碑﹂の建立[注釈 60]、﹃室生とみ子遺稿句集﹄の刊行の企画が発表され[注釈 61]、このうち詩人賞は翌1960年︵昭和35年︶年12月に第1回授賞が滝口雅子﹃青い馬﹄、﹃鋼鉄の足﹄に対して行われた[2]。 1960年︵昭和35年︶﹁黄金の針﹂を﹃婦人公論﹄1月号より12回連載。﹁告ぐるうた﹂を﹃群像﹄1月号より6回連載。3月短篇集﹃火の魚﹄刊行。同月、﹃かげろうの日記遺文﹄菊五郎劇団により歌舞伎座で上演される。﹁字をぬすむ男﹂を﹃小説新潮﹄4月号に発表。5月、旧﹁驢馬﹂同人を中心に﹁驢馬の会﹂が生れて第1回の集いあり[注釈 62]。7月長篇﹃告ぐるうた﹄刊行。﹁怒れる三本の鉤︵のちに﹁三本の鉤﹂と改題︶を﹃新潮﹄9月号に発表。9月随筆集﹃生きたきものを﹄刊行。﹁我が草の記﹂を﹃群像﹄10月号に発表。10月﹃新潮社日本文学全集第24巻 室生犀星集﹄刊行。﹁帆の世界﹂を﹃小説新潮﹄12月号に発表。12月短篇集﹃二面の人﹄刊行。 1961年︵昭和36年︶1月﹁タールの沼﹂を﹃新潮﹄1月号に、4月﹃黄金の針﹄刊行。﹁簪マチ子﹂を﹃別冊文藝春秋﹄6月号に発表。﹁渚﹂を﹃群像﹄7月号に発表。﹁はるあはれ﹂を﹃新潮﹄7月号に発表。7月短篇集﹃草・簪・沼﹄刊行。夏、軽井沢にあって身体不調。9月肺炎で臥床する。﹁末野女﹂を﹃小説新潮﹄9月号に発表。10月港区虎の門病院に検査入院。11月退院。同月、﹁私の履歴書﹂を﹃日本経済新聞﹄に掲載。同月﹃講談社日本現代文学全集第61巻 室生犀星集﹄刊行。12月第2回﹁室生犀星詩人賞﹂を富岡多恵子、辻井喬に贈る[2]。 1962年︵昭和37年︶、﹁明治の思ひ﹂を﹃小説新潮﹄1月号に発表。﹁われはうたへどやぶれかぶれ﹂を﹃新潮﹄2月号に発表。2月小説﹃はるあはれ﹄刊行。2月25日に書かれ﹃婦人之友﹄4月号に掲載された﹁老いたるえびのうた﹂が絶筆となる。3月1日虎の門病院入院[注釈 63]。19日より意識不明。肺癌のため虎の門病院で死去。従四位に叙せられ勲三等瑞宝章を贈られる。28日密葬、29日青山葬儀場にて無宗教による葬儀[13]。葬儀委員長中野重治[14][2]。 1962年︵昭和37年︶5月金沢市中川除町に文学碑建立。10月18日、金沢郊外の野田山墓地に埋葬された[8]。﹁犀星忌﹂は3月26日。生前刊行された単行本は、260冊に及ぶ[15]。犀川大橋から桜橋までの両岸の道路は﹁犀星のみち﹂と呼ばれる。全集[編集]
●室生犀星全集 ︵全13巻別巻1非凡閣 1936年-1937年︶ ●室生犀星作品集 ︵全12巻 新潮社 1958年-1960年︶ ●室生犀星全集 ︵全12巻・別巻2新潮社 1964-68年︶ ●室生犀星未刊行作品集︵全6巻 三弥井書店 1986-90年︶ ●室生犀星童話全集 ︵全3巻 創林社 1978年︶ ●詩歌は﹁全詩集﹂が筑摩書房︵限定版と普及版で全1巻、1962年︶と、冬樹社︵全3巻、1978年︶で出版。 ●室生犀星全王朝物語︵上下巻、作品社、1982年︶ ●室生犀星句集 魚眼洞全句︵北国出版社、1977年︶ いずれも娘・室生朝子編、いくつかの﹁詩集﹂を編み﹁晩年の父犀星﹂をはじめ多数の関連著作を刊行した。作品[編集]
詩集[編集]
●﹃愛の詩集 第一詩集﹄感情詩社、1918年 のち角川文庫 ●﹃抒情小曲集 第2詩集﹄感情詩社、1918年 ●﹃第二愛の詩集 第四詩集﹄文武堂書店、1919年 ●﹃寂しき都会﹄聚英閣、1920年 ●﹃星より来れる者﹄大鐙閣、1922年 ●﹃田舎の花﹄新潮社、1922年 ●﹃忘春詩集﹄京文社、1922年 ●﹃青き魚を釣る人 抒情小曲﹄アルス、1923年 ●﹃高麗の花 詩文集﹄新潮社、1924年 ●﹃故郷圖繪集﹄椎の木社、1927年 ●﹃鶴﹄素人社書店、1928年 ●﹃魚眠洞発句集﹄武蔵野書院、1929年 ●﹃鳥雀集 拾遺抒情詩﹄第一書房、1930年 ●﹃鐵(くろがね)集﹄椎の木社、1932年 ●﹃十九春詩集﹄椎の木社、1933年 ●﹃犀星発句集﹄野田書房 1935年 ●﹃十返花 詩歌集﹄新陽社 1936年 ●﹃泥雀の歌﹄実業之日本社 1942年 ●鉛筆詩集︵単行本なし︶ ●﹃美以久佐(みいくさ)﹄千歳書房、1943年 ●﹃詩集 いにしへ﹄一條書房、1943年 ●﹃動物詩集﹄日本繪雑誌社、1943年 ●﹃日本美論﹄昭森社、1943年 - 戦後に﹃夕映梅花﹄と改題され再刊 ●﹃山ざと集﹄生活社、1946年 ●﹃信濃山中﹄全国書房、1946年 ●﹃旅びと﹄臼井書房、1947年 ●﹃逢ひぬれば﹄富岳本社 1947 ●﹃室生犀星詩集﹄自選 岩波文庫、1955年 他に新潮文庫・ハルキ文庫で刊 ●﹃哈爾濵詩集﹄冬至書房 1957年 ●﹃遠野集 定本犀星句集﹄五月書房 1959年 ●﹃女ご(をみなご)のための最後の詩集﹄︵単行本なし、﹃続女ひと﹄所収︶ ●﹃昨日いらつしつて下さい﹄五月書房 1959年︵﹃女ごのための最後の詩集﹄での増補作︶ ●﹃晩年﹄︵﹃昨日いらつしつて下さい﹄以降の作品群。単行本未収録。筑摩版﹃室生犀星全詩集﹄に収録︶ ●﹃室生犀星全詩集﹄筑摩書房 1962年小説[編集]
●﹃或る少女の死まで﹄1919年 ●﹃結婚者の手記 あるひは﹁宇宙の一部﹂﹄新潮社、1920年 ●﹃性に眼覚める頃﹄新潮社、1920年 のち角川文庫、新潮文庫 ●﹃蒼白き巣窟﹄新潮社、1920年 ●﹃鯉﹄春陽堂、1921年 ●﹃古き毒草園﹄隆文館、1921年 ●﹃蝙蝠﹄隆文館、1921年 ●﹃香炉を盗む﹄隆文館、1921年 ●﹃美しき氷河﹄新潮社、1921年 ●﹃幼年時代﹄金星堂、1922年 のち旺文社文庫 ●﹃走馬灯﹄新潮社、1922年 ●﹃万花鏡﹄京文社、1923年 ●﹃肉の記録﹄文化社 1924年 ●﹃翡翠﹄寳文館、1925年 ●﹃青い猿﹄春陽堂、1932年 ●﹃神々のへど﹄山本書店、1935年 - 普及再版で改題﹃兄いもうと﹄︵﹁あにいもうと﹂が映画・ドラマ化︶ ●﹃女ノ図﹄竹村書房、1935年 ●﹃哀猿記﹄民族社、1935年 ●﹃弄獅子﹄有光社︵純粋小説全集 第8巻︶、1936年 ●﹃聖処女﹄新潮社 1936年 のち角川文庫 ●﹃女の一生﹄むらさき出版部、1938年 ●﹃大陸の琴﹄新潮社、1938年 ●﹃つくしこひしの歌﹄実業之日本社、1939年 ●﹃波折﹄︵小説集︶竹村書房、1939年 ●﹃乳房哀記﹄鱒書房、1940年 ●﹃戦死﹄︵小説集︶小山書店、1940年 ●﹃王朝﹄実業之日本社、1941年 ●﹃戦へる女﹄明石書房、1941年 ●﹃蝶・故山﹄桜井書店、1941年 ●﹃甚吉記﹄愛宕書房、1941年 ●﹃鮎吉船吉春吉﹄小学館、1942年 ●﹃瞼のひと﹄偕成社、1942年 ●﹃蟲寺抄﹄博文館、1942年 ●﹃乙女抄﹄偕成社、1942年 ●﹃筑紫日記﹄小学館、1942年 ●﹃山の動物﹄︵童話︶小学館、1943年 ●﹃萩の帖﹄全国書房、1943年 ●﹃木洩日﹄六芸社、1943年 ●﹃神国﹄全国書房、1943年 ●﹃我友﹄博文館、1943年 ●﹃余花﹄昭南書房、1944年 ●﹃三吉ものがたり﹄新洋社、1946年 ●﹃山の動物﹄小学館、1946年 ●﹃作家の手記﹄養徳社、1946年 ●﹃信濃の歌﹄清水書房、1946年 ●﹃女の図﹄大日本雄弁会講談社、1947年 ●﹃世界﹄︵小説集︶東京出版、1947年 ●﹃玉章﹄共立書房、1947年 ●﹃山鳥集﹄桜井書店、1947年 ●﹃オランダとけいとが﹄︵童話集︶小学館、1948年 ●﹃五つの城﹄東西社、1948年 ●﹃みえ﹄実業之日本社、1948年 ●﹃童笛を吹けども﹄弘文堂書房、1948年 ●﹃童女菩薩﹄酣灯社、1948年 ●﹃狩衣﹄玄文社、1948年 ●﹃氷った女﹄クラルテ社、1948年 ●﹃或る少女の死まで﹄岩波文庫、1952年 ●﹃あにいもうと・山吹﹄角川文庫、1953年 ●﹃黒髪の書 犀星近作集﹄新潮社、1955年 ●﹃幼年時代・あにいもうと﹄新潮文庫、1955年 ●﹃妙齢失はず﹄新潮社、1956年 ●﹃三人の女﹄新潮社、1956年 ●﹃陶古の女人﹄三笠書房、1956年 ●﹃舌を噛み切った女﹄河出新書、1956年 のち新潮文庫 ●﹃少女の野面﹄鱒書房︵コバルト新書︶、1956年 ●﹃杏つ子﹄新潮社、1957年 のち文庫 ●﹃夕映えの男﹄大日本雄弁会講談社、1957年 ●﹃つゆくさ﹄筑摩書房、1958年 ●﹃生きるための橋﹄実業之日本社、1959年 ●﹃蜜のあはれ﹄新潮社、1959年 ●﹃かげろふの日記遺文﹄講談社、1959年 のち角川文庫 ●﹃火の魚﹄中央公論社、1960年 - ﹃蜜のあはれ﹄を装丁した栃折久美子をモデルとした小説[16] ●﹃告ぐるうた﹄講談社、1960年 ●﹃二面の人﹄雪華社、1960年 ●﹃草・簪・沼 小説集﹄新潮社、1961年 ●﹃古事記物語﹄小学館︵少年少女世界名作文学全集︶、1962年 ●﹃はるあはれ﹄中央公論社、1962年 ●﹃宿なしまり子﹄角川書店、1962年 ●﹃われはうたへどもやぶれかぶれ﹄講談社、1962年評論・随筆[編集]
●﹃新らしい詩とその作り方﹄文武堂書店、1918年 ●﹃魚眠洞随筆﹄新樹社、1925年 ●﹃庭を造る人﹄改造社、1927年 ●﹃天馬の脚﹄改造社、1929年 ●﹃庭と木﹄武蔵野書院、1930年 ●﹃茱萸の酒﹄︵随筆集︶岡倉書房、1933年 ●﹃文芸林泉﹄︵随筆集︶中央公論社、1934年 ●﹃慈眼山随筆﹄竹村書房、1935年 ●﹃復讐﹄竹村書房、1935年 ●﹃随筆文学 犀星随筆集﹄三笠書房、1935年 ●﹃印刷庭苑 犀星随筆集﹄竹村書房、1936年 ●﹃薔薇の羹﹄改造社、1936年 ●﹃駱駝行﹄︵随筆集︶竹村書房、1937年 ●﹃作家の手記﹄河出書房、1938年 ●﹃あやめ文章﹄作品社、1939年 ●﹃一日も此君なかるべからず 室生犀星随筆集﹄人文書院、1940年 ●﹃花霙﹄豊国社、1941年 ●﹃芭蕉襍記﹄三笠書房、1942年 ●﹃残雪﹄竹村書房、1942年 ●﹃日本の庭﹄朝日新聞社、1943年 ●﹃乳房哀記﹄コバルト社、1946年 ●﹃信濃山中﹄全国書房、1946年 ●﹃残雪﹄清水書房、1946年 ●﹃泥孔雀 随筆﹄沙羅書房、1949年 ●﹃随筆 女ひと﹄新潮社、1955年、のち文庫、岩波文庫 ●﹃続随筆 女ひと﹄新潮社、1956年、のち文庫 ●﹃誰が屋根の下﹄︵随筆︶村山書店、1956年 ●﹃李朝夫人﹄村山書店、1957年 ●﹃我が愛する詩人の伝記﹄中央公論社、1958年、新編2021年[17]、のち角川文庫、新潮文庫、中公文庫 ●﹃中央公論﹄で連載中に佐藤惣之助の遺族から抗議があり、佐藤の章は未収録。 ●﹃刈藻﹄清和書院、1958年 ●﹃現代人の日本史 平安遷都﹄河出書房新社、1959年 ●﹃硝子の女﹄︵随筆︶新潮社、1959年 ●﹃室生犀星集﹄日本書房︵現代知性全集︶、1960年 ●﹃翡陶﹄有信堂、1960年 ●﹃生きたきものを﹄中央公論社、1960年 ●﹃黄金の針 女流評伝﹄中央公論社、1961年 ●﹃四角い卵﹄︵随筆︶新潮社、1962年 ●﹃好色﹄筑摩書房、1962年 ●﹃憑かれたひと 二つの自伝﹄冬樹社、1972年文庫・新編版[編集]
●﹃犀星王朝小品集﹄岩波文庫、1984年 ●﹃かげろうの日記遺文﹄講談社文芸文庫、1992年、改版2012年 ●﹃蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ﹄講談社文芸文庫、1993年 ●﹃加賀金沢・故郷を辞す﹄講談社文芸文庫、1993年 ●﹃あにいもうと・詩人の別れ﹄講談社文芸文庫、1994年 ●﹃抒情小曲集・愛の詩集﹄講談社文芸文庫、1995年 ●﹃或る少女の死まで 他二篇﹄岩波文庫 改版2003年 ●﹃室生犀星集 童子﹄東雅夫編、ちくま文庫・文豪怪談傑作選 2008年 ●﹃哈爾浜詩集・大陸の琴﹄講談社文芸文庫 2009年 ●﹃庭をつくる人﹄ウェッジ︵文庫判︶、2009年 ●﹃天馬の脚﹄ウェッジ︵文庫判︶、2010年 ●﹃深夜の人・結婚者の手記﹄講談社文芸文庫 2012年 ●﹃蜻蛉日記 現代語訳﹄岩波現代文庫 2013年 - 元版は河出書房﹃王朝日記随筆集﹄ほかに収録 ●﹃わが肌に魚まつわれり―室生犀星百詩選﹄宮帯出版社 新書 2016年 ●﹃我が愛する詩人の伝記﹄講談社文芸文庫、2016年 ●﹃室生犀星俳句集﹄岸本尚毅編、岩波文庫、2022年校歌作詞[編集]
●金石町小学校 ●菊川町小学校 ●中村町小学校 ●南加瀬小学校 ●野町小学校 ●小将町中学校 ●金沢大学附属小学校 ●金沢大学附属高校 ●金沢大学 ●金沢大学薬学部︵学生歌︶ ●金沢美術工芸大学 ●旧金沢高等師範学校 ●旧湯沢町立湯沢小学校 ●東京都大田区立馬込小学校 ●東京都大田区立馬込第三小学校 ●東京都大田区立萩中小学校 ●東京都北区立田端中学校 ●富山県立砺波高等学校 ●海南市立日方小学校 ●普連土学園 ●長野県軽井沢高等学校交友[編集]
●萩原朔太郎 ●相川俊孝 ●芥川龍之介 ●中野重治 ●堀辰雄 ●伊藤信吉 ●森茉莉 ●萩原葉子 ●桂井未翁 ●尾山篤二郎 ●岡谷天芥派生関連本[編集]
●清家雪子﹃月に吠えらんねえ﹄月刊アフタヌーン 2013年~2019年 - 室生犀星の作品から受けた印象をキャラクター化した犀という人物が主要人物として登場する脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ ﹁室生﹂の歴史的仮名遣いによる表記は﹁むろふ﹂である。1986年内閣告示の﹁現代仮名遣い﹂では、﹁歴史的仮名遣いでオ列の仮名に﹁ほ﹂または﹁を﹂が続くものはオ列の仮名に﹁お﹂を添えて書く﹂としており、﹁むろふ﹂はこれに該当しないので、﹁現代仮名遣い﹂の原則にしたがえば表記は﹁むろう﹂となる。
(二)^ 吉種は、加賀藩で百五十石扶持の足軽組頭をつとめ、廃藩後は剣術道場を開いた。
(三)^ 学業成績不良が原因。奥野健男﹁青き魚―室生犀星の詩的故郷―﹂﹃日本文学研究資料叢書 近代詩﹄有精堂出版、1984年 p.95
(四)^ 勤め始めは月給一円五十銭。福永武彦﹁室生犀星伝﹂﹃現代日本文学館21佐藤春夫・室生犀星﹄文藝春秋、1968年 pp.237-252
(五)^ 検事局の監督書紀。奥野健男﹁青き魚―室生犀星の詩的故郷―﹂﹃日本文学研究資料叢書 近代詩﹄有精堂出版、1984年 p.101
(六)^ 能筆の俳人の監督書紀。奥野健男﹁青き魚―室生犀星の詩的故郷―﹂﹃日本文学研究資料叢書 近代詩﹄有精堂出版、1984年 p.101
(七)^ 北聲會という俳句の月例会に参加した。奥野健男﹁青き魚―室生犀星の詩的故郷―﹂﹃日本文学研究資料叢書 近代詩﹄有精堂出版、1984年 p.103
(八)^ ホトトギス派の句人でもあった。奥野健男﹁青き魚―室生犀星の詩的故郷―﹂﹃日本文学研究資料叢書 近代詩﹄有精堂出版、1984年 p.103
(九)^ 相場新聞であったものを室生は文芸新聞にしてしまい、社長に譴責された。福永武彦﹁室生犀星伝﹂﹃現代日本文学館21佐藤春夫・室生犀星﹄文藝春秋、1968年 pp.237-252
(十)^ ﹁ふるさとは遠きにありて思ふもの﹂で知られる﹁小景異情﹂は第5号掲載作品。
(11)^ 卑猥語をローマ字表記した詩語を用いたのを当局に知られた。
(12)^ 1919年︵大正8年︶11月までに計32号刊行した。
(13)^ 高村光太郎、山村暮鳥、加藤介春、三木露風、福士幸次郎、日夏耿之介、白鳥省吾、富田砕花、室生の9名。
(14)^ 刊行後の2月21日、内務省から、納本された﹃月に吠える﹄の発行者を呼び出す通知があり、室生が出頭。収録詩のうち﹁愛隣﹂を削除すること、そのまま書店配布すれば発売禁止にするという﹁厳しい命令でもあり、比較的同情ある注意︵前田夕暮︶﹂がある。製本の遅れで流通前であったため、﹁愛隣﹂とそれに続く﹁恋に恋する人﹂を削除し、断り書きをつけて店頭に出した。
(15)^ 金沢で小学校教師をしていた。歌や俳句をつくり、かねてから文通があった。福永武彦﹁室生犀星伝﹂﹃現代日本文学館21佐藤春夫・室生犀星﹄文藝春秋、1968年 pp.237-252
(16)^ 亡父への献呈。
(17)^ ﹃三田文學﹄誌上で野口米次郎による丁寧な批評と紹介を受ける。室生犀星﹃庭を造る人﹄改造社、1927年 pp.209-210
(18)^ 北原白秋、萩原朔太郎、田邊孝次による序文あり。
(19)^ 同年﹁幼年時代﹂の原稿を﹃中央公論﹄編集長滝田樗陰あて送付したところ、滝田の来訪あり。﹃中央公論﹄8月号に﹁幼年時代﹂、10月号に﹁性に眼覚める頃﹂、11月号に﹁或る少女の死まで﹂が掲載され、小説家として有名になった。
(20)^ 恩地孝四郎による装幀。
(21)^ 瀧田哲太郎への献呈。
(22)^ 恩地孝四郎による装幀。
(23)^ 恩地孝四郎による装画。
(24)^ 北原白秋への献呈。
(25)^ 岸田劉生による装幀。
(26)^ 藤井紫影による序文。下島勳による表紙題簽。室生自身による装幀考案。
(27)^ 福士幸次郎による序文。恩地孝四郎による装幀。
(28)^ 下島空谷による題簽。室生自身による装幀。
(29)^ 下島勳による題簽。室生自身による装幀。
(30)^ 立原は、昭和10年代の或る日、室生の詩集について、﹃抒情小曲集﹄を採るか、﹃愛の詩集﹄を採るか、そのどちらを採るかで、その人間の文学は決定されるのだ、と中村真一郎に語り、自分は断乎として﹃愛の詩集﹄を採ると述べた。中村真一郎﹁詩人の肖像﹂﹃日本の詩歌15室生犀星﹄中公文庫、1975年 p.405
(31)^ 恩地孝四郎による題簽・挿繪、室生自身による中扉。
(32)^ 室生自身による装幀。
(33)^ これはのち9月に﹃兄いもうと﹄と改題し普及版刊行。
(34)^ 1942年︵昭和17年︶まで続けた。
(35)^ 下島勳による題簽。室生自身による装幀。
(36)^ 恩地孝四郎による装幀、挿畫。
(37)^ 10歳の子供による題簽。室生自身による装幀。
(38)^ 11歳の子供による題簽。室生自身による装幀。
(39)^ 全14巻。1937年10月完結。
(40)^ 山﨑斌による装幀。畦地梅太郎による文刻。
(41)^ 室生自身による装幀。
(42)^ 折口信夫による序文﹁王朝語﹂。下島勳による題簽。室生自身による装幀。
(43)^ 下嶋勲による題簽。
(44)^ 恩地孝四郎による装幀。大石哲路による挿畫。
(45)^ 室生自身による装幀。
(46)^ 室生自身による装幀。
(47)^ 室生自身による装幀。
(48)^ 室生自身による装幀。
(49)^ 室生自身による装幀。
(50)^ 立野道正、大石哲路による挿絵。
(51)^ 室生自身による装幀。
(52)^ 巻末﹁著者紹介﹂に日本文學報國會會員と表示。
(53)^ 室生自身による装幀。
(54)^ 恩地孝四郎による題字。
(55)^ 室生自身による装幀。
(56)^ 室生自身による装幀。
(57)^ 恩地孝四郎装幀・扉・カット。靑木淸による挿絵。
(58)^ 翌1957年︵昭和32年︶8月18日まで。
(59)^ 1960年︵昭和35年︶5月に完結。
(60)^ 1960年︵昭和35年︶6月に軽井沢二手橋畔に用地選定、1961年︵昭和36年︶7月に﹁切なき思ひぞ知る﹂の詩を刻した詩碑が完成。なお、妻の一周忌にちなみ﹁昭和三十五年十月十八日﹂の日附が刻まれた。
(61)^ 1960年︵昭和35年︶3月﹃とみ子發句集﹄が刊行され知人に贈られた。
(62)^ 佐多稲子、西沢隆二、宮木喜久雄、窪川鶴次郎、伊藤新吉、中野重治、原泉、室生犀星、室生朝子ら。中村真一郎﹁詩人の肖像﹂添付写真解説﹃日本の詩歌15室生犀星﹄中公文庫、1975年 p.407
(63)^ 見舞客のうち、福永武彦は面談して、辞去する際次にどこにいくつもりなのか、室生が気にしている有様だったが、中村真一郎は、﹁男なんかに会ってもしようがない。﹂と室生が娘に言ったため、ついに入室できなかった。福永武彦﹁室生犀星伝﹂﹃現代日本文学館21佐藤春夫・室生犀星﹄文藝春秋、1968年 pp.237-252、中村真一郎﹁詩人の肖像﹂﹃日本の詩歌15室生犀星﹄中公文庫、1975年 pp.396-411
出典[編集]
(一)^ “アーカイブされたコピー”. 2014年8月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年11月4日閲覧。富山新聞、2010年8月5日
(二)^ abcdefghij吉田精一﹁室生犀星年譜﹂﹃現代日本文学館21佐藤春夫・室生犀星﹄文藝春秋、1968年 pp.455-480
(三)^ ひっぷ。封建制度下において使われた言葉で、教養がなく、身分の低い女の意味。
(四)^ 本校母体の沿革
(五)^ 奥野健男﹁青き魚―室生犀星の詩的故郷―﹂﹃日本文学研究資料叢書 近代詩﹄有精堂出版、1984年 p.95
(六)^ “犀星ゆかりの寺損壊、保全困難 金石の海月寺、建て替え検討”. 北國新聞. 2024年2月10日閲覧。
(七)^ ﹁室生犀星の﹁本名﹂と﹁号﹂の読み方と、犀星の随筆﹃夏の夕﹄の読み方を知りたい。﹂︵白山市立松任図書館︶ - レファレンス協同データベース︵2018年3月1日閲覧︶
(八)^ abcdefghijklmnopqrstuvwxyzaaabacadae伊藤信吉﹁年譜﹂﹃日本の詩歌15室生犀星﹄中公文庫、1975年 pp.412-415
(九)^ ab室生犀星 - ﹃デジタル版日本人名大辞典Plus﹄講談社︵コトバンク︶
(十)^ 小川和佑﹁立原道造年譜﹂﹃現代詩読本 立原道造﹄思潮社、1978年 p.238
(11)^ 小山正孝﹁年譜 立原道造﹂﹃日本の詩歌24丸山薫、田中冬二、立原道造、田中克己、蔵原伸二郎﹄中央公論社、1968年 pp.421-422
(12)^ ﹁立原道造年譜﹂﹃日本詩人全集28伊東静雄、立原道造、丸山薰﹄新潮社、1968年 pp.223-224
(13)^ 福永武彦﹁室生犀星伝﹂﹃現代日本文学館21佐藤春夫・室生犀星﹄文藝春秋、1968年 pp.237-252
(14)^ 岩井寛﹃作家の臨終・墓碑事典﹄︵東京堂出版、1997年︶p.326
(15)^ 奥野健男﹁室生犀星の文学 ―評価の方法―﹂﹃日本文学研究資料叢書 近代詩﹄有精堂出版、1984年 p.76
(16)^ 番組エピソード 文豪の世界への誘い 〜大作家の作品のドラマ化〜 -NHKアーカイブス
(17)^ ﹁婦人公論﹂同時連載時のエッセイ、濱谷浩による約100点のグラビア写真も収録
関連項目[編集]
- 室生犀星記念館 - 犀星の生誕地跡に金沢市が設置した文化施設
外部リンク[編集]
- 室生 犀星:作家別作品リスト - 青空文庫
- 室生犀星プロフィール - 新潮社
- 室生犀星 - 室生犀星記念館