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淮軍

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淮軍(わいぐん)は、朝の重臣李鴻章同治元年(1862年)に編成した地方軍である。湘軍と並べて湘淮と称される。

変遷

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成立

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31853

81858101860111861

18627000

太平天国軍との戦い

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76500

40[1]西10

西26672186331864

捻軍との戦い

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41865451866

西西71868

50[2]

北洋軍へ

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9187081882101884

201894

21189510

編成・制度

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淮軍の基本的な軍制は湘軍のそれを継承していた。

湘軍から継承した制度

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1

500


72
×2

×3

×1

108

108

108

108
×2

×4

×2

西

淮軍独自の制度

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西洋式訓練を受けた兵士

淮軍と湘軍の最大の相違点は、淮軍が積極的に西洋の新式兵器を導入した事である。同治2年、各部隊指揮官とは別に西洋人を軍事教官として招いて西洋式軍事教練を行わせた。またそれまでの火縄銃隊を西洋式小銃隊に改め、旧式の劈山砲を開花砲に改めた。更に光緒3年(1877年)にはドイツの軍制を参考にクルップ砲隊を設置、洋務運動の過程で創設された江南機器製造総局天津武備学堂で武器製造と人材育成を図った。また拠点を直隷省に移してからは、北洋水師内に近代的な北洋艦隊を編成した。


西西[3][4][5][6]

主な人物

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脚注

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  1. ^ 岡本隆司 2011, p. 74.
  2. ^ 岡本隆司 2011, p. 75.
  3. ^ 陳舜臣『中国の歴史(七)』講談社、1991年、p.311
  4. ^ 陳舜臣 『江は流れず(下)』 中央公論社、1984年、p.92・p.139
  5. ^ 陳舜臣『中国の歴史(七)』講談社、1991年、p.309
  6. ^ 陳舜臣 『江は流れず(下)』 中央公論社、1984年、pp.93-94

参考文献

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稿 

稿 

 / 



 ︿2011ISBN 9784004313403:22027605