牧野忠清
牧野 忠清︵まきの ただきよ、元和6年︵1620年︶ - 元禄6年2月5日︵1693年3月11日︶︶は、旗本第2代三根山領主。牧野忠成の五男。通称は半右衛門。室は大久保忠知の娘。子女は牧野忠貴。
初め父・忠成の意向で家老・稲垣平助則茂の養嗣子となるが、牧野家に復し徳川家綱の小姓となり、慶安3年︵1650年︶には西城書院番士となり、蔵米300俵を給され、のちに本城書院番士となる。明暦2年︵1656年︶2月5日、書院番頭に昇進する。同年12月、300俵加増され、布衣を着ることを許される。万治元年閏12月18日︵1659年︶、兄・定成の後嗣となり遺跡を相続。それまでの600俵は収公される。万治3年︵1660年︶、兄の定成の菩提を弔うために小さな庵の本堂を再建し、その寺号を一山寺とした。寛文5年︵1665年︶、職を辞す。延宝2年︵1674年︶、越後長岡藩の幼君牧野忠辰の補佐をした。延宝6年︵1678年︶、日光山門主と京に赴く。天和2年︵1682年︶5月29日、致仕し幽閑と号する︵法名も同じ︶。忠貴が跡を継いだ。葬地は芝西応寺町︵東京都港区芝2丁目︶の西応寺。