王勱
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王 勱︵おう ばい、天監5年︵506年︶- 太建4年5月2日[1]︵572年5月29日︶︶は、南朝梁から陳にかけての政治家。字は公済。本貫は琅邪郡臨沂県。
経歴[編集]
王琳と義興昭長公主蕭令嫕︵南朝梁の武帝の同母妹︶のあいだの子として生まれた。南朝梁の武帝のときに国子周易生となり、射策挙に及第して、秘書郎・太子舎人・宣恵武陵王主簿・軽車河東王功曹史を歴任した。河東王蕭誉が京口に出向すると、王勱はこれに随従しようとしたが、張纘の推挙を受けて太子洗馬となった。太子中舎人に転じ、司徒左西属をつとめた。さらに南徐州別駕従事史として出向した。 河東王蕭誉が広州刺史となると、王勱はその下で冠軍河東王長史・南海郡太守となった。蕭誉が嶺南に赴任すると、当地の混乱がつづいたため、失政への処罰をおそれて病と称し、王勱に広州の事務を委任して朝廷に帰還した。王勱の広州統治は清廉なことで知られた。入朝して給事黄門侍郎となった。 侯景の乱が起こると、王勱は江陵に逃れ、湘東王蕭繹の承制のもとで太子中庶子となり、掌相府管記をつとめた。寧遠将軍・晋陵郡太守として出向した。兵乱の後で郡中は疲弊していたため、王勱は簡素な統治につとめた。後に召還されて侍中となり、五兵尚書に転じた。承聖3年︵554年︶、西魏が江陵に侵攻してくると、元帝︵蕭繹︶は湘州刺史の蕭循の救援を求め、王勱に湘州の統治を代行させた。江陵が陥落すると、梁王蕭方智の承制のもとで王勱は中書令となった。紹泰元年︵555年︶、侍中の位を加えられた。 陳霸先が司空となると、王勱は司空長史を兼ねた。太平元年︵556年︶、陳霸先が丞相となると、王勱は丞相長史を兼ねた。杜龕の乱が起こると、王勱は監呉興郡諸軍事をつとめた。太平2年︵557年︶、蕭勃の乱が平定されると、王勱は使持節・都督広州等二十州諸軍事・平南将軍・平越中郎将・広州刺史に任じられた。赴任しないうちに衡州刺史に転じた。王琳︵王勱の父の王琳とは別人、会稽王氏︶が長江中流域をおさえ、衡州・広州も王琳に呼応したため、王勱は衡州に赴任することができず、大庾嶺にとどまった。 天嘉元年︵560年︶、召還されて侍中・都官尚書となり、任につかないうちに再び中書令となった。太子詹事に転じ、東宮の事務を代行した。金紫光禄大夫の位を加えられ、度支尚書を兼ねた。天康元年︵566年︶、廃帝が即位すると、王勱は散騎常侍の位を加えられた。太建元年︵569年︶1月、宣帝が即位すると、王勱は尚書右僕射に転じた。ときに東方で洪水があり、民衆が飢饉に苦しんだため、王勱は仁武将軍・晋陵郡太守に任じられた。後に召還されて中書監となった。太建4年︵572年︶1月、再び尚書右僕射となり、右軍将軍を兼ねた。同年5月、死去した。享年は67。侍中・中書監の位を追贈された。諡は温といった。脚注[編集]
- ^ 『陳書』巻5, 宣帝紀 太建四年五月癸卯条による。