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王 揖唐︵おう ゆうとう︶は、清末民初の政治家・軍人。安徽派の政治家として安福倶楽部を指導する。後に中華民国臨時政府、南京国民政府︵汪兆銘政権︶に参加した。旧名は志洋。字は慎吾・什公。後に、名を賡、字を一堂と改めたが、号の揖唐で知られる。筆名は逸唐。
清末民初の活動[編集]
1904年︵光緒30年︶、甲辰科進士となったが、自ら望んで軍事を学ぶことを清朝に願い出て、同年9月に日本へ留学した。東京振武学校を経て、金沢砲兵第9連隊で実習に臨んだ。しかし軍人生活に適応できず、法政大学での学習に転じた[1]。1907年︵光緒33年︶に帰国した。以後、兵部主事、東三省総督署軍事参議、吉林陸軍第1協統統領、吉林督練処参議を歴任した。1909年︵宣統元年︶から、ロシアとアメリカへ外遊し、軍事等の視察を行った[2][3][4]。
中華民国成立後、王揖唐は袁世凱の下で総統府秘書、参議、顧問などをつとめた。また、政党活動にも参加し、民社、共和促進会、統一党の3党を経て、黎元洪が理事長をつとめる共和党で幹事となった。1913年︵民国2年︶、チベット選出の第1期国会参議院議員となる。5月、共和党、民主党、統一党の3党合併により進歩党が成立すると、王揖唐は理事をつとめた。その後も袁世凱を支持する路線をとり続け、約法会議議員として中華民国約法制定に参与する。参政院参政、吉林巡按使、内務総長を歴任した。また、フランスやドイツへ外遊して陸軍の組織の視察も行い、袁世凱が皇帝即位を目論んだ際には﹃国華報﹄という新聞を創刊してこれを支援する言論を張った[3][4][5]。
安福倶楽部[編集]
善後会議議員時代
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
1916年︵民国5年︶6月の袁世凱死後は、王揖唐は安徽派に属する。翌年11月に段祺瑞が臨時参議院を組織すると、王揖唐が議長に就任した。1918年︵民国7年︶3月8日、王揖唐は徐樹錚とともに安福倶楽部を設立し、安徽派のための様々な政治活動に従事した。同年8月2日、王揖唐は衆議院議長に就任して、以後、﹁安福国会﹂と称される国会運営を主導した。9月には大総統に徐世昌を選出している。このほか、南方政府との和平交渉では首席代表を務め、私立民国大学や中華大学の校長にもなった。しかし、1920年︵民国9年︶7月の安直戦争で直隷派に安徽派が敗北すると、同年8月3日に安福倶楽部と安福国会は徐世昌の命令により解散させられた。王揖唐も指名手配されたため、日本へ亡命して、しばらくは著述活動に専念した[3][4][6]。
1924年︵民国13年︶10月の北京政変︵首都革命︶を経て段祺瑞が臨時執政として復権する。王揖唐もこれに参加し、11月には安徽省長兼督弁軍務善後事宜に就任した。1925年︵民国14年︶2月、善後会議議員となる。中国国民党の北伐に際しては、王揖唐は北方各派に与してこれに抵抗しようとした。しかし1928年︵民国17年︶の北伐完了と共に王揖唐は指名手配されたため、天津の日本租界に逃げ込み、再び著述活動に励んだ。1931年︵民国20年︶から国民政府の政治家として復帰し、東北政務委員会委員に任命された。その後、国難会議会会員、華北戦区救済委員会委員、行政院駐平政務整理委員会委員、冀察政務委員会委員、天津匯業銀行総理を歴任した[3][4][7]。
親日政府での活動[編集]
1936年︵民国25年︶5月、王揖唐は親日の蒙古軍政府に参加し、実業署署長に任命された。日中戦争︵支那事変、抗日戦争︶勃発後の1937年︵民国26年︶12月14日に、王克敏が北京で中華民国臨時政府を組織する。王揖唐もこれに参加し、議政委員会常務委員、賑済部総長、内政部総長を歴任した。1939年︵民国28年︶9月からは、汪兆銘︵汪精衛︶を支持してその政権への参加交渉に従事した[3][4][8]。
1940年︵民国29年︶3月の南京国民政府成立と共に、王揖唐は考試院院長兼華北政務委員会委員となる。6月には華北政務委員会委員長に就任した。さらに、中央政治委員会委員、内務総署督弁にも任じられている。1943年︵民国32年︶1月、最高国防会議議員、全国経済委員会副委員長、新国民促進委員会委員︵後に常務委員︶となった[3][8][9]。
日本が敗北した後の1945年︵民国35年︶12月5日に王揖唐は北平の病院で逮捕される[10]。当初、王揖唐は重病とみなされて裁判にかけられなかったが、後にその仮病が発覚するなどして1946年︵民国35年︶9月に裁判に付されることになった[11]。河北高等法院で死刑が言い渡された後、南京首都高等法院で当該判決が確定する。1948年︵民国37年︶9月10日[12]、漢奸の罪により北平の監獄で銃殺刑に処せられた。享年72︵満70歳︶[3][8][13]。
(一)^ 劉国銘主編︵2005︶、230頁は、陸軍士官学校で学んだ、としているが、誤りと思われる。
(二)^ 蕭︵2005︶、727頁。
(三)^ abcdefg徐主編︵2007︶、153頁。
(四)^ abcde劉国銘主編︵2005︶、230頁。
(五)^ 蕭︵2005︶、727-728頁。
(六)^ 蕭︵2005︶、728-729頁。
(七)^ 蕭︵2005︶、729-730頁。
(八)^ abc蕭︵2005︶、730頁。
(九)^ 劉国銘主編︵2005︶、230-231頁。
(十)^ 余ほか︵2006︶、1482頁、1614頁による。蕭︵2005︶、730頁は、1946年夏に逮捕としている。
(11)^ 上海﹃新聞報﹄1946年9月8日︵余ほか︵2006︶、1482頁︶。
(12)^ 徐主編︵2007︶、153頁は﹁1946年夏処刑﹂としているが、誤りである。
(13)^ 劉国銘主編︵2005︶、231頁。