相坂峠
相坂峠 | |
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西栗栖側から西望 | |
所在地 | 兵庫県たつの市新宮町下莇原 |
座標 | 北緯34度57分52.2秒 東経134度27分24.9秒 / 北緯34.964500度 東経134.456917度座標: 北緯34度57分52.2秒 東経134度27分24.9秒 / 北緯34.964500度 東経134.456917度 |
標高 | 180 m |
通過路 | 国道179号(出雲街道) |
プロジェクト 地形 |
相坂峠︵あいさかとうげ︶は、兵庫県たつの市新宮町︵旧揖保郡新宮町︶から佐用郡佐用町︵旧佐用郡三日月町︶へ至る峠。標高は180メートル。
概要[編集]
●国道179号︵出雲街道︶が通る。また峠の下を姫新線が相坂トンネルで抜ける。 ●東の栗栖川流域︵揖保川水系︶と西の角亀川流域︵千種川水系︶を分かつが、峠の両側とも同自治体である︵たつの市新宮町鍛冶屋と同市新宮町下莇原との境界を成す︶。これは、たつの市が発足する以前の揖保郡新宮町時代も同様だった。 ●南側の山をはさんで、莇原峠が越えている。歴史[編集]
●﹃播磨国風土記﹄に見える﹁阿為山﹂︵あいやま︶が、峠名の由来とされる。 ●承久の乱ののち隠岐へ流された後鳥羽上皇がこの峠を越えて三日月︵現・佐用町︶で休んだ折、越してきた峠が京の東に位置する逢坂峠と同じ読みと聞き、﹁立帰り越しゆく関と思はばや 都に聞きし逢坂の山﹂と詠んだ。再びこの峠を越して京へ帰りたい、との思いを込めたのだが、その機会は訪れなかった。 ●元弘の乱に際して後醍醐天皇が隠岐へ流された時も、この峠を越している。 ●江戸時代には山陰地方の各大名が参勤交代で通り越す道筋に当たった。 ●明治期には14年︵1881年︶、32年︵1899年︶と2度の拡幅工事が行われている。 相坂峠 国道179号を西北へ、揖保郡新宮町から佐用郡三日月町へ至る峠が相坂峠である。 相坂という呼称は、揖保郡と佐用郡のあいだの坂のことと思われがちだが、これは奈良時代の﹁播磨風土記﹂に登場する﹁阿為山︵あいやま︶﹂から由来したと思われる。 鎌倉時代には、承久の変で後鳥羽上皇が北条義時のために壱岐島へ流される時この西栗栖の相坂を越して三日月の東部にある椋の大木に腰をかけて休み、静かに相坂をふりかえり、京都の東の逢坂と同じ名であることを聞き、 ﹁立帰り越しゆく関と思はばや 都にききし逢坂の山﹂ と歌った。これは﹁今はたとえ壱岐島に流されてても再びこの相坂を越して都に帰りたい﹂と念願されたものと推察される。しかしその機会が無く、亡くなったことは名残惜しいことである。 その約百年後には、元弘の変で北条高時のために後醍醐天皇も壱岐島へ流される時ここを越している。なお、江戸時代には中国山陰地方の諸大名が参勤交代のためここを越している。 相坂峠は古来因幡街道中の難関として世に知られ、急こう配の峻険な坂で昔は牛馬と籠でここを越していた。明治時代に荷車が通行するようになると道幅が狭いため通行が困難となり、明治14年、明治32年の二度の改修工事が行われた。 — 相坂峠︵休憩所︶案内銘板より通過する交通路[編集]
道路[編集]
バス[編集]
- たつの市コミュニティバス 新宮Cルート