石川成章 (地質学者)
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石川 成章 | |
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生誕 |
1872年7月26日(明治5年6月21日) 愛知県碧海郡下中嶋村(現:岡崎市中島町字本町) |
死没 | 1945年9月6日(73歳没) |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 地質学 |
出身校 | 東京帝国大学理科大学地質学科 |
主な受賞歴 |
勲五等瑞宝章 勲四等瑞宝章 |
プロジェクト:人物伝 |
石川 成章︵いしかわ せいしょう、1872年7月26日︵明治5年6月21日︶- 1945年︵昭和20年︶9月6日︶は、日本の地質学者。晩年は真宗大谷派参事を務めた[1]。
経歴[編集]
愛知県碧海郡下中嶋村︵現‥岡崎市中島町字本町︶の浄光寺で石川嶺観の四男として生まれる。浄土真宗三河教校に学ぶ[1]。1896年︵明治29年︶7月に東京帝国大学理科大学地質学科に入学。1899年︵明治32年︶7月、同大学を卒業[2]。 同年9月、東京真宗中学校講師に就任。それからのち東京高等師範学校、陸軍中央幼年学校、早稲田大学などで教鞭を執った[3]。 1907年︵明治40年︶6月、鉱務技師として福岡県鉱山監督局に赴く。1917年︵大正6年︶12月、京都帝国大学工学部ならびに理学部の講師を嘱託される[2]。 講師を続けるかたわら、旧制中学校の地質学の教科書を中心に多くの書物を執筆し、後進の育成に努めた。また、宗教・漢詩文の方面でも活躍した。著作の主なものとしては﹃鉱物界﹄﹃鉱物界教授指針﹄﹃中学鉱物界﹄﹃地文学教科書﹄﹃地球発達史﹄﹃地文学講義﹄﹃地学教程﹄﹃地文地質学要解﹄﹃宇宙の黙示﹄﹃自然の妙趣﹄﹃自然科学と仏教﹄などが挙げられる[4]。 京都にいる頃、1931年︵昭和6年︶1月に京都地方裁判所調停員を嘱託されている[2]。 晩年は郷里岡崎市の浄光寺に帰り、真宗大谷派参事の職に就いた。号を簡堂といった。1945年︵昭和20年︶9月6日に他界[4]。享年73。栄典[編集]
- 1900年(明治33年)3月 - 従七位[5]
- 1902年(明治35年)4月 - 正七位[6]
- 1905年(明治38年)8月 - 従六位[6]
- 1906年(明治39年)4月 - 勲五等瑞宝章、明治三十七八年従軍記章[6]
- 1908年(明治41年)10月 - 正六位[6]
- 1913年(大正2年)6月 - 勲四等瑞宝章[6]
- 1913年(大正2年)11月 - 従五位
- 1916年(大正5年)5月 - 正五位