秋山要助
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秋山 要助︵あきやま ようすけ、安永元年11月25日︵1772年12月19日︶ - 天保4年8月25日︵1833年10月8日︶[1]︶は江戸時代の剣客。扶桑念流︵扶桑無念流︶を開いた。諱は正武[2]。通称は要助[2]。号は雲嶺、雷角斎入道。
1772年︵安永元年︶、武蔵国埼玉郡箱田村︵現 埼玉県熊谷市箱田︶の農民の子として生まれる[2]。父・善太郎から鹿島新当流を学び、その後、神道無念流第2代の戸賀崎暉芳に学び、神道無念流の印可を授かった。次に同流の江戸の神田猿楽町の岡田吉利︵初代 岡田十松︶の撃剣館に入門した[2]。さらに近藤三助より天然理心流も学んだ。
1800年︵寛政12年︶、常陸国多賀郡平潟村︵現 茨城県北茨城市︶で撃剣館の同門の大橋平吉の仇討に助勢し、剣名をあげた[2]。
弟子の大川平兵衛に神道無念流を継がせ、1811年︵文化8年︶、故郷の箱田と武蔵国飯能︵現 埼玉県飯能市︶に道場﹁扶桑館﹂を開き、自ら秋山流剣術元祖と称した[1]。50歳頃、高田藩士・酒井良祐︵直心影流︶との試合に敗れた。1824年︵文政7年︶剃髪して雲嶺と号した[1]。1830年︵文政10年︶、上野国佐野の山崎観純と郷学﹁講武堂﹂を設け、水戸、高崎、伊勢崎にも道場を開いた[2]。