秋枝三郎
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秋枝 三郎 | |
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生誕 |
1916年9月15日 日本 山口県豊北町 |
死没 |
1942年5月31日(25歳没) フランス国 マダガスカル島 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1939 - 1942 |
最終階級 | 海軍中佐 |
秋枝 三郎︵あきえだ さぶろう、1916年︵大正5年︶9月15日 - 1942年︵昭和17年︶5月31日︶は、日本の海軍軍人。特殊潜航艇﹁甲標的﹂搭乗員としてマダガスカル攻撃作戦に参加し、戦死。二階級特進により最終階級は海軍中佐。
秋枝艇が雷撃した﹁ラミリーズ﹂︵1939年︶
山口県豊北町阿川土井出身。9人兄弟姉妹の三男である。妻は海軍大佐・小早川隆次の娘、文子[1]。山口中学を経て、海軍兵学校を卒業。秋枝は海兵66期で、同期生に特殊潜航艇︵以下﹁特潜﹂︶艇長としてシドニー湾攻撃で戦死した松尾敬宇、中馬兼四らがいる。1939年︵昭和14年︶6月、海軍少尉任官。戦艦﹁霧島﹂、駆逐艦﹁江風﹂乗組みを経て、1940年︵昭和15年︶11月、水上機母艦﹁千代田﹂ 乗組みとなる。この補職は岩佐直治とともに﹁特潜﹂搭乗員の第一期講習員として選ばれ、訓練を受けるためのものである[2]。
太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において岩佐直治ら﹁特潜﹂搭乗員9名が戦死したのち、軍令部は﹁特潜﹂による港湾進入攻撃には消極的であった[3]。しかし真珠湾攻撃の戦訓を取り入れた装備の改善などが実施され、﹁特潜﹂による第二次攻撃が決定。秋枝は英軍に占領されたマダガスカル島北部のディエゴ・スアレスを攻撃する﹁特潜﹂部隊の艇長に選ばれる。
1942年︵昭和17年︶5月31日夕刻、﹁伊二〇潜水艦﹂から艇附・竹本正巳一等兵曹と出撃。﹁伊一六潜水艦﹂からは艇長・岩瀬勝輔少尉、艇附・高田高三二等兵曹が出撃している。湾内に進入した﹁特潜﹂は英戦艦﹁ラミリーズ﹂及び油槽船1隻に魚雷を命中させ、油槽船は沈没。﹁ラミリーズ﹂は1年あまり戦線を離脱する損害を受けた[4]。
しかし、﹁特潜﹂2隻は母潜との会合地点に現れず、﹁特潜﹂搭乗員4名は戦死とされた。戦後、豊田穣の調査や、英側の資料からこの魚雷攻撃を行ったのが秋枝・竹本艇であること及び両名の行動が判明している[4]。秋枝と竹本は雷撃に成功した後に艇が座礁したため、脱出しマダガスカル島に上陸。母潜との会合地点に徒歩で向かったが、英軍部隊に発見された。両名は降伏勧告を拒否し、15名を相手に軍刀と拳銃で戦いを挑み、戦死した。戦死日は英側資料では6月2日、現地の目撃証言では6月4日である。
二段であった秋枝に対し講道館から四段が贈られている[5]。秋枝は戦死4ヵ月前に結婚しており、遺腹の女子があった。しかしこの女子は生後3ヵ月で死去。1989年︵平成元年︶、女子の遺髪は竹本兵曹長の娘の手でマダガスカル島に埋められた[1]。
経歴[編集]
脚注[編集]
- 注釈
- 出典