竹腰勝起
竹腰 勝起︵たけのこし かつおき、元文3年9月6日︵1738年10月18日︶- 寛政元年8月19日︵1789年10月7日︶︶は、尾張藩の附家老、美濃今尾藩の第6代当主。
尾張藩主徳川宗勝の五男。母は妙観院。初名は勝紀︵かつのり︶。正室は脇坂安興の娘。子に竹腰睦群︵長男︶、井上正紀︵次男︶。官位は従五位下、山城守。
藩主の子として生まれたが竹腰正武の養子となり、宝暦4年︵1754年︶4月に将軍の徳川家重に初めて拝謁し、12月には従五位下・壱岐守に叙任。先代の正武が宝暦9年︵1759年︶12月8日に死去したため、同年12月28日に3万石の跡を継ぎ、山城守に転任。明和2年︵1765年︶4月に徳川家康の150年忌のため、尾張藩主徳川宗睦の名代として日光山に参詣[1]。天明4年︵1748年︶8月、美濃国で3,000石を預けられる。天明5年︵1785年︶3月1日、長男の睦群に家督を譲って隠居し、寛政元年︵1789年︶8月19日に死去した。法号は映徳院殿朝散大夫諦誉豊堂聴音大居士。墓所は東京都港区虎ノ門の天徳寺。
系譜[編集]
父母 ●徳川宗勝︵実父︶ ●妙観院 ー 側室︵実母︶ ●竹腰正武︵養父︶ 正室 ●脇坂安興の娘 子女脚注[編集]
- ^ 小山譽城『徳川御三家付家老の研究』(清文堂出版、2006年) ISBN 4-7924-0617-X