糸姫
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糸姫︵いとひめ、元亀2年︵1571年︶ - 正保2年6月20日[1]︵1645年8月11日︶︶は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。蜂須賀正勝の娘。福岡藩初代藩主・黒田長政の正室で、一女をもうけたが、離縁された[2]。この離縁により、黒田、蜂須賀両家は127年間にわたり不仲となり、享保12年︵1727年︶に和解した[3]。
生涯[編集]
元亀2年︵1571年︶、羽柴秀吉︵豊臣秀吉︶の家老・蜂須賀正勝︵小六、彦右衛門︶の次女として生まれた[1]。母は正勝の側室の白雲院︵鳥井越中守の娘︶[1]。異母兄姉に蜂須賀家政、奈良姫︵賀島長昌正室︶がいる。 天正12年︵1584年︶、秀吉は、家臣の中で正勝と双璧であった黒田孝高︵官兵衛︶の両家を縁組させようとして、糸を自らの養女として孝高の子・長政︵吉兵衛︶と結婚させた[4][5]。婚儀の当日、秀吉は自ら新婦・糸の手をとって大広間にお目見えさせて舅・孝高に渡す厚遇をした[4]。新郎の長政はこのとき17歳、新婦の糸は14歳だった。 慶長2年︵1597年︶、長政と糸の間に一女・菊が生まれた。菊は長じて黒田家家臣の井上之房の子・井上庸名︵淡路守︶に嫁いだ[4]。 ところが、慶長5年︵1600年︶、長政が徳川家康に従って上杉征伐に行く際に糸は急に離縁された[4]。同年5月5日、家康は家臣・保科正直の娘・栄姫を自分の養女にして長政に嫁がせ、継室とさせた[6][8]。 その後、糸は兄の領国の阿波国に戻り、しばらく徳島城の西の丸で暮らした[1]。 正保2年︵1645年︶6月20日に死去。享年75[1]。戒名は寶珠院殿桃渓僊公尼大姉、墓所は桃渓山臨江寺[1]。関連作品[編集]
脚注[編集]
(一)^ abcdefg岡田 1876, p. 213.
(二)^ ﹁大帰﹂とある[1]。嫁いだ女が離縁されて実家に帰ること。
(三)^ 国立国会図書館. “ア︶蜂須賀家と黒田家︵福岡︶が離縁などにより不仲だったという出典を知りたい。 ブログで、﹁江戸城内で...”. レファレンス協同データベース. 2023年10月23日閲覧。
(四)^ abcd金子 1916, p. 170-171.
(五)^ 須藤茂樹﹁黒田長政の妻﹂︵﹃月刊歴史読本﹄2014年3月号[要ページ番号]・中経出版︶
(六)^ 堀田 1923, p. 206.
(七)^ 堀田 1923, p. 208-209.
(八)^ 黒田忠之、黒田長興、黒田高政はいずれも栄姫の子である[7]。