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自由劇場︵じゆうげきじょう︶は、作家・小山内薫と歌舞伎俳優・二代目市川左團次が始めた新劇運動である。1909年︵明治42年︶から1919年︵大正8年︶にかけて9回の公演︵試演︶を行った。
自由劇場は劇場や専属の俳優を持たない﹁無形劇場﹂で、年2回の公演を目標に、会員制の組織とした。イプセンの﹃ジョン・ガブリエル・ボルクマン﹄、ゴーリキーの﹃夜の宿﹄、チェーホフの﹃犬﹄などの翻訳劇、森鷗外・吉井勇・秋田雨雀などの戯曲を上演した。自由劇場は前後して発足した坪内逍遥の文芸協会とともに、新劇運動のはしりとなり、当時の知識人に好評で迎えられた。
小山内たちの運動のモデルになったのはヨーロッパの﹁自由劇場運動﹂ (Théâtre Libre) である。小山内はフランスの自由劇場について詳細に知らなかった[1]が、イギリスのグライン︵J. T. Grein︶の独立劇場︵Independent Theatre Society︶を真似たのである。独立劇場もフランス自由劇場の影響で成立したもの[2]だから、日本の自由劇場はフランスから始まる自由劇場︵演劇運動︶の影響を受けたことになる。
設立まで[編集]
二代目市川左團次は、はじめ市川莚升と名乗っていた。新演劇を始めた川上音二郎の演劇運動に興味をそそられ、影響を受ける[3]。先代から明治座を受け継ぎ、1906年に左團次を襲名するが、襲名披露の興行が大当たりで、収益を元に9か月の外遊に出かけた。劇作家の松居松葉とともに欧米各地を視察し、新しい演出法や興行法を見て刺激を受けた。帰国後、歌舞伎界の革新を志し、明治座で茶屋制度の廃止、女優の起用など改革を試みるがうまくゆかず、責任を取って松居は辞任した。
左團次は作家の小山内薫と意気投合し、翻訳劇を中心に上演する自由劇場を始めることになった。2人は同年代︵左團次が1年上︶で、ともに10代半ばで鶯亭金升の門に入り、雑俳を学んだ仲であった。
小山内は岩村透や島崎藤村らと演目について相談し、イプセンの﹃ジョン・ガブリエル・ボルクマン﹄を選び、翻訳を森鷗外に依頼した。誰も実際に﹃ボルクマン﹄の舞台を見ていないので、小山内は留学中の友人・大久保栄に問い合わせ、舞台の様子を書き送ってもらった[4]。台詞回し、しぐさ、演出などのすべてが手探り状態であった。
出演は左團次一座の若い歌舞伎俳優らで、女形に加え、女優もいた。ボルクマン役は左團次、フォルダル役は市川左升、エルハルト役は市川團子︵後の猿之助︶、グンヒルド役は澤村宗之助、エルラ役は市川莚若、ヰルトン夫人役河原崎紫扇︵長十郎の伯母︶、フリイダ役は市川松蔦︵左團次の妹︶が演じた[5]。
第1回公演︵試演︶は1909年11月27日・28日、洋風劇場の有楽座で行われた。イプセン劇の本格的な上演は日本初であり、当時の知識人や若者に好評で迎えられた。その模様は、鷗外の小説﹃青年﹄に描かれている。
以後、自由劇場の公演は、第4回︵1911年︶まで有楽座、第5回以降は帝国劇場︵1911年3月開場︶で行われた。第5回までは公約通り年2回ペースであったが、6回以降は年1回、1915年から1918年の間は中断し、第9回︵1919年︶が最後になった。
第3回︵1910年︶に小山内訳の﹃夜の宿﹄︵ゴーリキーの﹃どん底﹄︶を採り上げた。その後、小山内は1912年から1913年に演劇研究のためヨーロッパ各国を訪問し、ロシアでモスクワ芸術座による同作︵﹃どん底﹄︶の舞台を観た。帰国後の第7回︵1913年︶にその成果を生かして再び﹃夜の宿﹄を上演した。この時期が自由劇場の最も充実した時期であったようである。