臼井茂樹
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臼井 茂樹︵うすい しげき、1898年︵明治31年︶10月30日[1][注 1] - 1941年︵昭和16年︶12月23日[1][2]︶は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
経歴[編集]
鹿児島県出身[1][2][3]。薩摩郡高江村大字久見崎︵現在の薩摩川内市久見崎町︶に臼井恕助の息子として生まれる[1][4]。熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1919年︵大正8年︶5月、陸軍士官学校︵31期︶を卒業[1][2][5]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第46連隊付となる[1][5]。1926年︵大正15年︶12月、陸軍大学校︵38期︶を卒業した[1][2][3]。 1928年︵昭和3年︶3月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、ポーランド・ソビエト連邦駐在、ポーランド兼ルーマニア公使館付武官補佐官、参謀本部員、参謀本部付などを務め、1937年︵昭和12年︶8月、歩兵中佐に昇進[1]。同月、兵科を航空兵に転科し航空兵中佐となる[1]。1939年︵昭和14年︶3月、航空兵大佐に進み参謀本部兼大本営第8課︵謀略課︶長に就任[1][2][3]。 1940年︵昭和15年︶8月、参謀本部課長に転じ、浜松陸軍飛行学校教官を経て、1941年︵昭和16年︶7月、飛行第98戦隊長に発令され太平洋戦争に出征[1][2][3]。ビルマの戦いに参戦し、1941年12月、ラングーン攻撃の機上で戦死し、陸軍少将に進級した[1][2][3]。墓所は多磨霊園。脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 『日本陸軍将官辞典』125頁では11月11日。