華清宮
表示
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8e/%E5%8D%8E%E6%B8%85%E5%AE%AB.jpg/220px-%E5%8D%8E%E6%B8%85%E5%AE%AB.jpg)
華清宮︵かせいきゅう︶は、中国陝西省の古都、西安市︵長安︶東北約30km先、唐代に造られた離宮。﹃長恨歌﹄において、楊貴妃が湯浴みしたことで知られる。
現在の臨潼区の驪山の麓にあり、﹁華清池﹂として観光地となっている。2007年に中国の5A級観光地に認定された[1]。
概要[編集]
﹁池﹂は本来﹁温泉﹂を意味し、驪山の麓、西繍嶺に湧く湯は秦漢代以来とされる。 後周や隋代に開発され、唐の太宗・李世民が、644年︵貞観18年︶閻立徳に命じて﹁温泉宮﹂を造らせている。 740年︵開元28年︶、唐の玄宗によって、皇子である寿王・李瑁の妻である楊玉環︵後の楊貴妃︶を女道士として住まわせている。この時、楊貴妃が湯浴みしたことを詠んだ記述が﹃長恨歌﹄に残っている。745年、天宝4載、楊玉環が貴妃に冊立されてからは、玄宗は毎年、温泉宮に10月に行幸しており、翌年春に帰るのが定まりとなった。 747年、︵天宝6載︶、玄宗の命令で規模が拡大され、﹁温泉宮﹂から﹁華清宮﹂に改称し、温泉も﹁華清池﹂に改称される。華清宮の周りは、羅城︵外郭︶に囲まれ、多くの役所や役人が置かれ、たくさんの楼閣が建てられた。748年、︵天宝7載︶には、老子が驪山頂上にある﹁朝元閣﹂に現れたという風説が、華清宮にいた玄宗に伝わり、749年、︵天宝8載︶以降は、華清宮で朝廷の年賀を行うことも一年ごしに行われた。 華清宮は、北の正門﹁津陽門﹂と南の﹁昭陽門﹂を結ぶ線に、前殿と後殿が造られ、東に玄宗が住む﹁飛霜殿﹂と、玄宗の使う湯である﹁九竜殿﹂、楊貴妃がつかう﹁妃子湯﹂︵芙蓉湯、蓮花湯︶がおかれ、﹁長生殿﹂などの建物群が並び立っていた。また、西には、后妃が湯浴みする﹁長湯﹂16カ所があり、闘鶏場や校歌台、ポロを行う毬場もあった。 ﹃明皇雑録﹄によると、﹁九竜殿﹂には、安禄山から献上された白玉石︵大理石︶の梁や蓮の花が飾られた。同じく献上された、白玉石でつくられた魚や雁などの像も並べられ、玄宗が入浴すると、鱗をふるわせ翼を上げたので、玄宗によって撤去されたという。また、﹁妃子湯﹂の周りにも白玉石でできた蓮の彫刻が飾られていた。 また、湯の家屋も大きさも数十間あり、文石が敷き詰められ、銀をちりばめて漆を塗った船や白香木でできた船が浮かべられ、櫂は珠玉で飾られていた。また、瑟瑟︵ラピスラズリ︶や沈香でつくられた瀛洲、方丈を形作った山が湯船の中におかれていたという。その水は溝にそって流され、中には珠や宝が混じっていることもあったと伝えられる。 華清宮のあった山には、元々、花が多かったところに、玄宗の命令により、牡丹の変種を作っていた宋単父が花を植え、さらに多くの花に包まれた。また、人に慣れた鹿も多く生息していた。 しかし、安史の乱の勃発後は衰退し、黄巣の乱後は荒廃し、五代十国の時代には﹁霊泉観﹂という道観が存在するようになった。脚注[編集]
- ^ “西安市华清池景区”. www.mct.gov.cn. 中華人民共和国文化観光部 (2021年7月22日). 2023年2月3日閲覧。