裴茂
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裴茂 | |
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後漢 尚書令・楊宣亭侯 | |
出生 |
生年不詳 司隸河東郡聞喜県 |
拼音 | péi mào |
字 | 巨光 |
主君 | 霊帝→少帝弁→献帝 |
生涯
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父の裴曄は并州刺史・度遼将軍を務めた[3][4]。﹃三国志﹄裴潜伝の注に引く﹃魏略﹄によると、裴茂は霊帝の時代に出仕し、県令・太守・尚書を歴任した[2]。また﹃晋書﹄裴秀伝によると、官位は尚書令にまで昇った[5]。
初平4年︵193年︶、侍御史の官にあり、献帝の命を受けて、獄に繋がれている者二百余人を釈放した。その中には李傕によって獄に囚われた者もあり、李傕はこれを恐れ、裴茂が勝手に囚人を釈放しているから逮捕したいと訴えた。しかし献帝はこの訴えに従わなかった[6]。
建安3年︵198年︶、謁者僕射の官にあり、段煨ら関中の諸将を率いて李傕を討伐。三族を皆殺しとした[6]。その功により列侯に封じられた[3]。
建安19年︵214年︶、裴茂は左中郎将・楊宣亭侯の官爵にあった。献帝の勅使として、魏公の曹操に金璽・赤紱・遠遊冠を授けた[7]。
その後の裴茂の動向は不明だが、﹃三国志﹄裴潜伝では、子の裴潜が裴茂の死去によって喪に服したことが魏の時代、曹叡即位以降の出来事として記述される[2]。
息子
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﹃山西通志﹄[1]に息子5人の名と事績が記述される。
●裴潜 - 魏の光禄大夫・清陽亭侯。母の身分が低く、また裴潜自身も細かな行儀を守らぬ性格で、裴茂からは軽んじられた[2]。
●裴儁 - 十余歳の時、蜀中長史に赴任する姉婿を送っていったが、戦乱に巻き込まれ帰郷できなくなる。のち蜀漢の光禄勲[8]。
●裴綰 - 尚書令。中眷裴氏の祖。
●裴輯 - 後漢献帝期に工部尚書となる。東眷裴氏の祖。
●裴徽 - 魏の冀州刺史・蘭陵武公。西眷裴氏の祖[3]。
脚注
[編集]- ^ a b 覺羅石麟 監修『山西通志』 s:zh:山西通志_(四庫全書本)/全覽5
- ^ a b c d 陳寿撰、裴松之注『三国志』魏書 裴潜伝 s:zh:三國志/卷23#裴潛
- ^ a b c 欧陽脩・宋祁『新唐書』表第十一上 宰相世系一上 s:zh:新唐書/卷071上
- ^ ただし『山西通志』は父の名を裴煜とする。
- ^ s:zh:晉書/卷035#裴秀
- ^ a b 范曄『後漢書』董卓伝 s:zh:後漢書/卷72#董卓
- ^ 『三国志』魏書 武帝紀注『献帝起居注』 s:zh:三國志/卷01
- ^ 『三国志』蜀書 孟光伝及び注に引く『裴氏家記』 s:zh:三國志/卷42#孟光