西文氏
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西文氏 | |
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家祖 | 王仁 |
主な根拠地 | 河内国古市郡西琳寺周辺 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
西文氏︵かわちのふみうじ︶は、日本の氏族。百済から渡来した王仁を始祖とする帰化した少数の百済人[1][2]。
概要[編集]
姓ははじめ首、天武天皇十二年︵683年︶九月に連を賜わり、天武天皇十四年六月に忌寸となる。延暦十年︵791年︶四月、宿禰の姓を賜わる[1]。本拠地は河内国古市郡西琳寺周辺。 ﹁文氏﹂とは、書にも作り、朝廷において文筆を掌ったことに基づく。大和国の東漢氏に対して西文氏と称す[1]。 活発な経済活動を背景に、5世紀、6世紀には倭王政府の使節として働いた[2]。 ﹃日本書紀﹄雄略天皇9年秋7月条によれば、飛鳥戸郡の田辺史伯孫の娘は、古市郡の書首加竜に嫁いだとされる。 推古天皇27年の己卯年9月7日には大山上の書大阿斯高君︵文首阿志高︶、その子の支弥高首、阿斯高君あるいは支弥高首の子の栴檀高首、土師長兄高連、羊子首、韓会古首が西琳寺を創建したとされる[3][4]。 672年の壬申の乱では、大海人皇子の舎人であった書根麻呂が大海人側につき戦っている。 根麻呂の子の文馬養は、﹁朝戸開けて 物思ふ時に 白露の 置ける秋萩 見えつつもとな﹂、﹁さを鹿の きたちなく野の 秋はぎは つゆ霜おひて 散りにしものを﹂の2首の歌が﹃万葉集﹄に採られている。﹃西琳寺文永注記﹄に見える西文氏[編集]
大阪府羽曳野市にある西琳寺は西文氏の氏寺であり、当寺に伝わる縁起書︵﹃西琳寺文永注記﹄︶によれば、志貴嶋天皇20年の己卯年9月7日に、大山上の書大阿斯高君︵文首阿志高︶、その子の支弥高首、阿斯高君あるいは支弥高首の子の栴檀高首、土師長兄高連、羊子首、韓会古首が創建したという。大山上は大化5年︵649年︶に制定された十九階の官位の一つで、のちの正六位上下あたりに相当し、中流官人である。﹁己卯年﹂は推古天皇27年︵619年︶と考えられている[3][4]。脚注[編集]
(一)^ abc﹁渡来系氏族事典﹂﹃歴史読本﹄第51巻第3号、新人物往来社、2006年2月、209頁。
(二)^ ab楽敏﹃鉴真东渡日文﹄五洲传播出版社、2005年、54頁。ISBN 7508508335。}
(三)^ ab寺岡洋﹁播磨の古代寺院と造寺・知識集団 38 : 氏寺︵氏の寺︶﹂と﹁知識寺︵知識の寺︶﹂― 西琳寺︵河内︶にみる古代寺院の実態 ―﹂﹂︵PDF︶﹃むくげ通信﹄第272巻、むくげの会、2015年9月27日。
(四)^ ab荻野三七彦﹁河内国西琳寺縁起︵公刊︶﹂﹃美術研究﹄第79号、1938年7月、35-43頁、CRID 1050282676656313216、NAID 120006481789。