西牟田公家
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西牟田公家 | |
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時代 | 南北朝時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
官位 | 讃岐守 |
氏族 | 西牟田氏 |
父母 | 西牟田家尚 |
子 | 為家、彌吉上総入道? |
西牟田 公家︵にしむた きんいえ︶は、南北朝時代の武将。
略歴[編集]
西牟田氏は筑後国の豪族。公家は西牟田家尚の嫡男として誕生。公家が活躍したのは南北朝騒乱の時代であったが、西牟田氏は常に南朝方であったようだ。 馬渡俊継﹃九州治乱記﹄にも、延元4年/暦応2年︵1338年︶に菊池八郎・宇土三郎らの南朝方が筑後へ打って出た際、西牟田彌次郎が宮方として武家︵足利幕府︶方と戦ったことが記述されている[1]。 この﹁西牟田彌次郎﹂は、西牟田公家の父・家尚と考えられるが、歴代西牟田家当主は﹁彌次郎﹂を襲名していたため、公家自身である可能性もある。 正平14年/延文4年︵1359年︶7月の筑後川の戦いには、西牟田讃岐守︵公家︶が[2][3]、後醍醐天皇より九州経営のために遣わされた懐良親王を奉じて、菊池武光ら4万の南朝軍と共に、少弐頼尚・大友氏時ら6万の武家(足利幕府︶方を打ち破っている[2][4]。 また、西牟田氏の菩提寺・寛元寺は宮方勝利を祈願するための祈祷寺であった。正平7年/観応3年︵1352年︶2月27日付の征西将軍宮︵懐良親王︶の令旨が現存している。 同寺には、応永3年︵1396年︶3月5日付の﹁讃岐守藤原公家﹂(西牟田公家︶の寄進状も残されている︵西牟田氏は藤原道隆裔とされるので、寺社への寄進の際は﹁藤原﹂を使う︶。 尚、公家の長男は為家︵西牟田城主︶[5]、二男は彌吉上総入道︵彌吉氏の始祖︶[6][7]である。系譜[編集]
脚注[編集]
出典[編集]
- 佐賀藩「西牟田氏系図」
- 矢野一貞『筑後将士軍談』中巻(名著出版)
- 馬渡俊継『九州治乱記』(青潮社)
- 犬塚盛純『歴代鎮西志』上巻(青潮社)