謝国明
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謝国明︵しゃこくめい、旧字体:謝國明 生年未詳 - 建長5年︵1253年︶5月以前︶は鎌倉時代中期の貿易商人。南宋人。博多綱首︵博多の唐房に住み、船を所有して日宋貿易に従事した宋人のこと︶。博多の伝承では、唐鋏を日本に伝えたほか︵後に博多鋏へ発展︶[1]、年越し蕎麦や鍼の元祖と伝えられる。
略歴[編集]
臨安︵杭州︶の出身[2]。のち、日本に帰化し、謝太郎国明︵くにあき︶と名乗った[2]。妻は日本人で、息子がいた[3]。 謝国明は、大宰小弐の武藤資頼[4]・資能親子に、出資家の筥崎宮や宗像神社などの信任が厚い宋商の綱首であった。 櫛田神社周辺に私邸があった[5]。 円爾︵聖一国師︶に帰依し、仁治3年︵1242年︶、円爾を開山として承天寺を建立した[6]。禅宗をはじめとした南宋の文化を博多に紹介している[2]。箱崎宮領の筑前国那珂郡の野間・高宮・平原の土地を買い、承天寺に寄進した。円爾が南宋で修行した径山万寿禅寺が火災で焼失すると、円爾の依頼により謝国明は材木1,000板を送っている[7]。のち、無準師範より礼状︵国宝﹁板渡しの墨蹟﹂︶を送られた[7][8]。 建長4年︵1252年︶7月12日の﹃関東御教書﹄には宗像大社の社領であった小呂島に関して、謝国明が妻の地頭を名乗って領有権を主張した[9]ことで宗像大社と領地争いになり[10]、宗像社雑掌が鎌倉幕府に社役対捍を訴え、幕府が謝国明を戒告処分としたことが記録されている[11]︵その後、宗像大社の小呂島所有が保障されている[11]︶。 弘安3年︵1280年︶、88歳で死去したとされる[2]。ただ、建長5年︵1253年︶5月3日に六波羅探題北条長時が記した﹃六波羅書下﹄では﹁遺領﹂﹁遺跡﹂﹁後家尼﹂という表現が使われており、その時点で既に死去していたものとされる。 承天寺の東約二百メートルにある墓の跡と伝えられる場所には楠の大木がある。このことから﹁大楠様﹂と呼ばれている[12][2]。 ウィキメディア・コモンズには、謝国明の墓に関するカテゴリがあります。 毎年8月21日には、謝国明を偲び、﹁大楠様千灯明祭﹂が行われている[2][12]。関連作品[編集]
テレビドラマ ●﹃北条時宗﹄ - NHK大河ドラマ、2001年、演‥北大路欣也。…本作では、弘安の役(1281年)、北条時宗の死去(1284年)の頃も健在であったと設定されている︵没年は明らかにされていない︶。脚注[編集]
(一)^ “知る | はかた伝統工芸館”. はかた伝統工芸館 | 伝統の新しいがここにある (2021年4月22日). 2023年2月25日閲覧。
(二)^ abcdef“博多の豆知識vol.66 ﹁日中友好の先駆者、謝国明﹂”. 福岡市 (2012年8月1日). 2023年2月25日閲覧。
(三)^ “No.057 博多綱首展‐博多居住の華僑たち”. 福岡市博物館. 2023年2月25日閲覧。
(四)^ No.72 博多と宗を結びつけた 華僑 謝国明(西日本シティ銀行の対談)﹃[1]2020年4月25日確認﹄の武野要子教授の話より。
(五)^ “謝国明の墓︵大楠様︶”. 福岡市公式シティガイド よかなび. 2023年2月25日閲覧。
(六)^ 福岡県総務部 1981, p. 39.
(七)^ ab“謝国明の墓”. 福岡市経済観光文化局. 2023年2月25日閲覧。
(八)^ “尺牘︵板渡しの墨蹟︶”. e国宝. 国立文化財機構. 2023年2月25日閲覧。
(九)^ ﹃日本海事研究﹄
(十)^ 高田茂廣 ﹁島の史跡めぐり﹂ 西区地域振興事業推進委員会 編・福岡市西区役所 監修﹃福岡史跡ガイド 西区は歴史の博物館﹄ 海鳥社 1995年 ISBN 4-87415-139-6
(11)^ ab﹁角川日本地名大辞典﹂編纂委員会 編﹃角川日本地名大辞典40福岡県﹄ 角川書店 ISBN 4-04-001400-6 1988年
(12)^ ab“謝国明 国際都市・博多で活躍した“大楠様””. 博多の魅力. 博多の魅力発信会議. 2023年2月25日閲覧。
参考文献[編集]
- 福岡県総務部総務渉外課 編『福岡県の歴史(福岡県史普及版)』福岡県、1981年10月30日。NDLJP:9773792。(要登録)
- 佐伯弘次『日本の中世〈9〉 モンゴル襲来の衝撃』 中央公論新社 2003年
外部リンク[編集]
- 謝国明 国際都市・博多で活躍した“大楠様” - 博多の魅力(博多の魅力発信会議)
- 博多の豆知識vol.66 「日中友好の先駆者、謝国明」 - 福岡市
- 謝国明の墓 - 福岡市の文化財(福岡市)
- 謝国明の墓(大楠様) - 福岡市公式シティガイド よかなび