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豊鍬入姫命︵とよすきいりひめのみこと、生没年不詳︶は、記紀に伝わる古代日本の皇族。
﹃日本書紀﹄では﹁豊鍬入姫命﹂﹁豊耜入姫命﹂、﹃古事記﹄では﹁豊鉏入日売命﹂﹁豊鉏比売命﹂と表記される。
第10代崇神天皇の皇女で、天照大神の宮外奉斎の伝承で知られる巫女的な女性である。
︵名称は﹃日本書紀﹄を第一とし、括弧内に﹃古事記﹄ほかを記載︶
﹃日本書紀﹄﹃古事記﹄によれば、第10代崇神天皇と、紀国造の荒河戸畔︵あらかわとべ、荒河刀弁︶の娘の遠津年魚眼眼妙媛︵とおつあゆめまぐわしひめ、遠津年魚目目微比売︶との間に生まれた皇女である。同母兄に豊城入彦命︵豊木入日子命︶がいる。
なお﹃日本書紀﹄では、﹁一云﹂として、母を大海宿禰の娘の八坂振天某辺︵やさかふるあまいろべ︶とする異伝を載せる。
﹃日本書紀﹄崇神天皇6年条によれば、百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になった際、天皇はその原因が天照大神︵のちの伊勢神宮祭神︶・倭大国魂神︵のちの大和神社祭神︶の2神を居所に祀ったことにあると考えた。そこで天照大神は豊鍬入姫命につけて倭の笠縫邑︵かさぬいのむら‥比定地未詳︶に祀らせ、よって磯堅城の神籬を立てたという。一方、倭大国魂神は渟名城入姫命につけて祀らせたが失敗している。
同書垂仁天皇25年3月10日条によると、天照大神は豊鍬入姫命から離され、倭姫命︵垂仁天皇皇女︶に託された。その後、倭姫命は大神を奉斎しながら諸地方を遍歴し、伊勢に行き着くこととなる︵伊勢神宮起源譚︶。
﹃古事記﹄では、豊鉏比売命︵豊鍬入姫命︶は伊勢の大神の宮を祀ったと簡潔に記されている。
豊鍬入姫命と倭姫命とは、ともに伊勢神宮の斎宮の起源に求められる︵ただし、制度上の最初の斎宮は天武皇女の大来皇女︶[3]。また上記伝承から、伊勢神宮の神格成立の要素として、豊鍬入姫命が出自とする紀国造の氏神の日前神や、三輪山︵一説に笠縫邑祭祀と関連︶での日神信仰の存在が指摘される。
そのほか名前の﹁豊︵とよ︶﹂から、豊鍬入姫命を邪馬台国における卑弥呼宗女の台与︵壹與/臺與︶に比定する説がある。
- ^ 所京子 「斎宮」『日本古代史大辞典』 大和書房、2006年。