道具主義
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道具主義︵どうぐしゅぎ、英: instrumentalism︶とは、科学哲学の世界で使われる言葉で、科学理論を、観察可能な現象を組織化・予測するための形式的な道具・装置であると見なす立場。観察可能な現象の背後にある観察不可能な隠れた実在の真の姿は知りえないとする。この点で科学的実在論と対立する。
道具主義においては、観察不可能な対象について語ることは形而上学の役割であると考え、科学の仕事ではないとする。つまり科学理論によって現象の説明・予測がどれだけうまくいっていても、それによって﹁理論が観察可能な現象の背後にある観察不可能な隠れた実在についての真なる記述になっている﹂とは考えない。﹁ただ単にうまくいっているだけだ﹂という風に考える。これが道具主義のひとつの特徴である。また現象を説明するためのいくつかの理論が存在する場合、理論の選択はその正しさによってではなく、現象をどれだけうまく予測・説明できるか、その有用性によって決まるとする。これは道具主義がそもそも﹁理論の正しさ﹂、つまり理論が実在を正しく記述しているかどうか、といった事は知りえないと考えているためである。
物理学の世界で道具主義の立場を鮮明にした人物として、19世紀オーストリアの物理学者エルンスト・マッハがいる[1][2]。