鄭芝溶
鄭芝溶 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 정지용 |
漢字: | 鄭芝溶 |
発音: | チョン・ジヨン |
日本語読み: | ていしよう |
鄭芝溶︵チョン・ジヨン、1902年陰暦5月15日 - 1950年︶は朝鮮の詩人。1930年代を代表する詩人であり、同世代と後輩達に大きな影響を与えた。鄭の詩は異国情緒、伝統的郷土情緒、そしてカトリックに依拠する宗教性の3つの傾向を持つ。
略歴[編集]
1902年陰暦5月15日、忠清北道沃川郡沃川面下桂里40番地に生まれる。父は延日鄭氏の鄭泰国、母は河東鄭氏の鄭美河の間の1人息子である。家は、父の鄭泰国が薬局を経営していて裕福であったが、ある年に洪水に見舞われ、生活が傾いていく。幼い頃は池龍と呼ばれた。1913年、恩津宋氏の宋在淑と結婚する。 1918年、徽文高等普通学校に入学する。この頃から詩の創作活動を始め、この年の12月、﹃曙光﹄創刊号に小説﹁三人﹂を発表した。学業の成績は非常によく、一年のときは首席であった。この時期、金崋山、朴八陽、朴済瓚らと共に、同人誌﹃搖籃﹄を発刊している。1922年、徽文高等普通学校を卒業し、父の友人である柳宓永宅で生活する。1923年、徽文義塾派らで作る﹁文友会﹂の学芸部長を務め、機関紙﹃徽文﹄創刊号の編集委員長もこなした。その才能が認められ、徽文義塾の校費で日本に留学することになり、1923年に京都の同志社大学英文科に入学した。留学中も詩の創作を続け、日本語でも﹃近代風景﹄に﹁悲しき印象画﹂﹁早春の朝﹂﹁鴨川﹂などを発表し、北原白秋からも高い評価を受けた。 1929年、同志社大学を卒業すると、帰国し、家族を連れて、ソウルに移る。そして母校の徽文高等普通学校で英語教師として職を得た。また、1930年、朴龍喆、金永郎、異河潤らと﹃詩文学﹄の同人になり、詩文壇で次々と作品を発表していく。1933年には、李泰俊、柳致真、金起林、李箱、朴泰遠らと﹁九人会﹂に参加する。﹃カトリック青年﹄﹃詩と小説﹄﹃京郷雑誌﹄﹃文章﹄の編集を担当し、文学活動を支えた。 1945年、解放を迎えると、長年務めていた徽文学校を辞任し、梨花女子専門学校の文科科長に就任、韓国語とラテン語を教授した。1946年に、梨花女子専門学校教授職を辞任し、京郷新聞の主幹を務めるが、1年後に、また梨花女子大学校の教授に復職する。ソウル大学校の文理科大学講師も務めたこともある。1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発すると、政治保衛部に拘束され、鄭仁沢、金起林、朴英熙らと共に西大門刑務所に収容される。その後、平壌監獄に移監されたが、詳細は分からない。︿越北作家﹀とされたため、1988年まで作品は発禁処分とされていた[1]。 2005年12月18日、同志社大学今出川キャンパス内に鄭芝溶の詩碑が建てられた[2]。年譜[編集]
作品[編集]
●1935年、詩集﹃鄭芝溶詩集﹄︵詩文学社︶ ●1941年、詩集﹃白鹿潭﹄︵文章社︶ ●1946年6月、詩集﹃芝溶詩選﹄︵乙酉文化社︶ ●1949年、﹃文学読本﹄︵博文出版社︶ ●1949年、﹃散文﹄︵同志社︶その他[編集]
●鄭芝溶文学賞脚注[編集]
- ^ Hatano, Setsuko; 波田野, 節子 (2020.12). Kankoku bungaku o tabisuru 60shō. Mariko Saitō, Hun-a Kim, 真理子 斎藤, 壎我 金. Tōkyō. ISBN 978-4-7503-5107-0. OCLC 1229081136
- ^ 鄭芝溶の詩碑建立 同志社大が敷地提供 2024年4月12日閲覧。