里見明
さとみ あきら 里見 明 | |
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本名 | 松本 米三 (まつもと よねぞう) |
別名義 | 小松 明 (こまつ あきら) |
生年月日 | 1901年5月16日 |
没年月日 | 1972年12月27日(71歳没) |
出生地 | 日本 東京府東京市本所区向島須崎町(現在の東京都墨田区向島4-5丁目) |
死没地 | 日本 東京都 |
職業 | 俳優 |
ジャンル | 歌劇、劇映画(時代劇・現代劇、サイレント映画・トーキー) |
活動期間 | 1920年 - 1934年 |
配偶者 | 有 |
著名な家族 | 松本英一(実兄) |
主な作品 | |
『籠の鳥』 |
里見 明︵さとみ あきら、1901年5月16日 - 1972年12月27日︶は、日本の俳優である。サイレント映画時代の映画スターである。本名は松本 米三︵まつもと よねぞう︶。﹁浅草オペラ﹂のスターから映画俳優に転向した。旧芸名小松 明︵こまつ あきら︶。
来歴・人物[編集]
浅草オペラから映画スターへ[編集]
1901年︵明治34年︶5月16日、東京府東京市本所区向島須崎町︵現在の東京都墨田区向島4-5丁目のあたり[1]︶に生まれる。兄はのちの映画監督の松本英一である。築地工手学校︵現在の工学院大学︶予科を修了後、太平洋画会︵現在の太平洋画会研究所︶で洋画を学んだ[2]が、兄同様に芝居に転向していく。 佐藤紅緑の劇団﹁日本座﹂に入団し函館で初舞台を踏み、浅草公園六区の﹁観音劇場﹂、新日本劇団を経て、﹁浅草オペラ﹂の根岸大歌劇団に入団、﹁小松明﹂名で一躍人気を集めた。1923年︵大正12年︶4月、兄の帝国キネマ芦屋撮影所入りとともに、俳優として入社する。映画俳優﹁里見明﹂としてのデビューは、同年8月5日公開の松本泰輔主演作﹃親なき雀﹄で、兄の監督としての入社第1作でもあった[2]。 1924年︵大正13年︶8月14日に公開された兄の監督作﹃籠の鳥﹄は帝キネ始まって以来のメガヒットとなり、主演の沢蘭子とともに、里見の名を不動のものにした。翌1925年︵大正14年︶1月14日の帝キネの内紛で60数名の集団退社、アシヤ映画製作所の設立に参加した。ほどなく内紛は収まり、帝キネ芦屋に復帰する。1926年︵大正15年︶、1本だけ映画を監督している。自らの脚本による主演作﹃美しき敗残者﹄である。同作は1月15日、帝キネの正月第2弾作品として公開された。最初で最後の監督作である。 1927年︵昭和2年︶12月に同社を退社、東京の河合プロダクションの設立に、兄とともに参加する。河合の設立第1回作品は、松本英一・里見明兄弟の兄監督、弟主演作﹃青春散歩﹄で[2]、1928年︵昭和3年︶3月1日に浅草﹁キネマ倶楽部﹂および神田﹁新声館﹂ほかで公開された。同作は少女女優琴糸路のデビュー作でもあった[3]。経営の激動に翻弄されて[編集]
1929年︵昭和4年︶、兄監督、琴糸路との共演による主演作﹃怒れる人気男﹄を最後の主演作として、同年10月いっぱいで河合を退社、同年11月には、兄と離れ、東亜キネマ等持院撮影所に移籍する。1931年︵昭和6年︶8月の同社解散にともない、その代行会社として同年9月に設立された東活映画社にそのまま在籍、翌1932年︵昭和7年︶10月の東活解散まで在籍したのち、同社を母体に設立した﹁日本映画﹂に移る。 1933年︵昭和8年︶﹁日本映画﹂社は東活が企てていた東京撮影所計画を遂行、﹁日本映画多摩川撮影所﹂︵現在の角川大映撮影所︶を完成したが、わずか3作のみを製作して短命に終わった会社である。そのレアな設立第1作﹃浅草三重奏﹄に里見は出演している。同社は翌年に倒産した。 在籍する会社の経営不振につぎつぎに翻弄された里見は、このあとも﹁新進キネマ﹂なる会社で﹃路二つ﹄に出演、33歳を迎える翌1934年︵昭和9年︶に市川右太衛門の市川右太衛門プロダクションに招かれ、3作品に出演した。浅草の繁華街の射的屋の美人看板娘を見初め、芸能界引退を条件に結婚を許される。しかし、役者をやめたことを後悔し酒におぼれる日が多く、不遇のうちに1972年︵昭和47年︶12月27日、満71歳で他界した。脚注[編集]
参考文献[編集]
関連事項[編集]
- 太平洋美術会
- 根岸大歌劇団 (根岸吉之助、根岸寛一)
- 帝国キネマ - アシヤ映画製作所 (山川吉太郎、石井虎松)
- 河合映画製作社 (河合徳三郎)
- 東亜キネマ - 東活映画社 - 日本映画 (映画会社)
- 市川右太衛門プロダクション (市川右太衛門)
- 籠の鳥 - 赤沢映画
外部リンク[編集]
- Akira Satomi - IMDb(英語)
- 里見明 - 日本映画データベース